第三章(七)『司馬承禎②』

 

神器「寶」の韻文は、天書であり、天隠です

唐代一の尊師、司馬承禎ですら、韻文の考案者として名を印す事は天神に対し不敬となろ

全てを歴史の闇に葬ったのです

老子の教え自体、無の思想と言われる道の教えです

密かに老子を超えたと自負する承禎です

司馬承禎としての証拠はありません

しかし状況証拠と歴史の痕跡全てが彼を指し示すのです

 

①「陶隠正一の法」②「天隠子」③「子微」④道号「道隠」

⑤「貞一先生」⑥「占易家」⑦「漢数術家」

⑧そして武后、睿宗、玄宗三代の皇帝と接見

⑨睿宗の「聖文孝武皇帝神主」の尊号

⑩この章(三)で提示した玄宗尊号“聖文”

⑪承禎、玄宗皇帝に史上初めて道主皇帝の法籙を授与する

⑫玄宗の命で『老子道徳経』を編纂しています

⑬名山に遊び仙人生活をしているが、当時の道教界の第一人者であります

 

ここで彼の占易家としての一端を彼の残した詩中で観てみましょう

玄宗皇帝の父睿宗が彼を招いて国を治める道を下問した

その“道”に嘆息し、睿宗は百官の宴を開く、そして承禎は下記の答礼の詩を詠む

                

 

この詩を詠んだ頃、まだ唐朝の政治的基盤は不安定でした

睿宗は短期政権でしかも短命でした

睿宗に拝謁した承禎は観相と占易でそれを観て詩に隠し詠んだのです

上記詩に

「時暮れて節春ならんと欲す」は睿宗の短期政権を占い「寶」焼成の磐石の皇帝を待ち焦

がれる思いを冒頭に秘めたのです

「象紛れんとす」

この後の政変と睿宗の短命を観相したのです

そして「思いいよいよ遠し」です

この歓送の宴に居並ぶ百官のレベルではこの歌に隠した承禎の胸中を分かる者は一人とし

ていまい

尚、詩に「琴を弾じて」とあります

彼は音曲に堪能でかつ能書家でした

司馬承禎の名を勝手に拝命した私です

私の音曲はカラオケです

これはナカナカのものと、密かに悦に入っています

書は小学校の時、1回だけであるが、銅賞を貰っている!

易者経験は東京新宿の酉の市で一晩7万5000円稼いでいる

ウソ八百八町、いい加減さは天下一品です

平成承禎の六感、“気”はいよいよ冴えてきました

尊師、司馬承禎に深い敬意を表して先へ急ごう

平成1935