宗師・承禎見参!!

 

 

第三章(六) 『道師・司馬承禎①』



私は、この奇跡の韻文を考案した道師は誰かと、唐代道教界を見渡した時、迷わず司馬承

禎を指差した

私の“気”直感です

唐代道教の主流、茅山派12代宗師です

既に彼の道師としての名声は、中華全土に鳴り響いていた

司馬承禎は647~735年、河内君温県の人です

21歳で道士となる

字は「子微」、「白雲子」と号し、茅山派11代宗師、潘師正に師事し「辟穀導引」の術を

学び道教の奥義「上清の法」を伝授される

また彼は師・潘師正に“陶隠正一”の法を授かっています

“陶隠です”まさに焼き物、陶器に隠す!!!!!です

また「正一」の「正」を『大漢和』で調べると“道”そして“北斗第一星の指す処”

関連語の「正印」には“星命家が印綬の兩干の相配合するもの”とあります。

更に「寶」が納められた神宮は最終「太微宮」の名称でした

「太微」は獅子座でありました

承禎の字名は「子微」です。

「子微は「太微」の子です。

さらに彼は『坐忘論』『天地宮府図』『天隠子』などの著作が残る(参考文献4『道教の大

事典』より)

「天隠子」は承禎の異名でもあります

“天隠”は天に隠す、です!!!!!!

神器「寶」には、天の道理、道教の奥義一切が天隠されてありました

また彼の道士としての道号も「道隠」です

大漢和「寶」の語訳に「道」がありました

“道隠”は「道」を隠す。道に隠れる。です

彼はあまねく名山に遊び、世に出る事をよしとしなかった

則天武后、睿宗、二人の皇帝の召喚を受け接見しています

二人の皇帝の、たっての任官の命も辞し、彼は自若として名山に遊ぶ

道経と承禎に深く心酔する玄宗皇帝は721年、承禎から法籙を受け、史上初めて道主皇

帝となる

玄宗皇帝は承禎を、王屋山に檀室を築かせ“おらしめた”と言う

勿論勅令であります

開元19年(731)『老子道徳経』を                  

玄宗皇帝の勅命により完成する

真本は篆書、隷書、金剪刀書で書写し

金剪書は彼が編み出した書体と聞きます

彼は則天武后、睿宗、玄宗皇帝、

三代の皇帝に接見しています

玄宗皇帝の父に当たる、睿宗が彼を招き             

“陰陽の術数”について下問しています

この「陰陽の術数」と記録にあるのは、まさに

“寶の韻文・九文字”の数術を御進講したのです

その証拠に『旧唐書』(文献13巻26)に

「睿宗“聖文”孝武皇帝神主」の尊号が載っております

皇帝睿宗に「寶」焼成の進言をしたのです

父睿宗の絶大な信頼と推挙です

玄宗皇帝は終生の師となった司馬承禎に「銀青光禄大夫」の位と「貞一先生」の尊号を送

っています

卒年は89歳でした

道家の語で「貞一」とは、奥義の極まりない事をさします

老子の再来と自負し、奇跡の韻文考案した承禎です

それでも己の功績一切を天隠した歴史上の謎の道士!司馬承禎です

北極神が獅子王を従えている。
「道教史」(文献66より転載)







                  平成1935