楊貴妃のお寺と歴史の推理


   

<其の一>

中国約1,300年前の唐朝の神器・太極「寶」が、何故現代の日本、そして富

山県氷見市に辿りついたのか、歴史の空白です。

この問題は誰もが抱く疑問です。

「寶」解明時、膨大な検証に追われ、思索がそこまで及びませんでした。

秘蔵していた故吉田翁の談によれば、「寶」は維新の廃藩置県時、富山藩から市

中に流れたとの事です。

そして富山の豪商が手に入れ、その豪商が戦後まもなく没落し、骨董市に売り

だされ、翁が競り落としたと聞いておりました。

「寶」解明の初期段階に富山・金沢の図書館その他に足を運びましたが、探索

は及びませんでした。

本年、富山藩主の菩提寺である真国寺のご住職を訪ね、諸々お聞きしましたが、

未だ歴史の彼方であります。

拝命した承禎の名にかけて、1,300年前の唐朝の宗廟にあった「寶」が何故、

富山藩まで辿りついたのか、歴史を大観し、挑戦する事に致しました。

 

<其の二>

「寶」解明時、インターネットがありませんでした。

近年のインターネットによると、徐福伝説同様、@★山口県長門市に真言宗龍

伏山ニ尊院とA★熊本県天草の新和町2か所に、安史の乱を逃れて、楊貴妃が

渡来したと云う伝説がある事が分かりました。

そのほかB愛知県の熱田神宮C埼玉県奥秩父の法雲寺D京都泉涌寺などにも楊

貴妃伝説が伝わるとの事です。

しかし、楊貴妃自身が『寶』を携え、渡来したとなれば、海路を考えると@★

A★の検証が最優先です。

@★のニ尊院の創建の記録は807年で、遣唐使・最澄の開山と伝えられる。




                                     真言宗龍伏山二尊院

 

そこに楊貴妃が流れ着き、間もなく亡くなり楊貴妃の墓まであるとの事です。

インターネットによれば、中国の考古学者も調査に来て確かに楊貴妃が日本で

死んだと云う、証拠となるものまで存在していると発表しています。

二尊院の楊貴妃渡来は、H22年12月「女性セブン」H24年10月NHK

総合「朝イチ」・2015年1月朝日新聞夕刊・同年中日新聞夕刊などにも取り

上げられたとの事です。

まさにテレビ、新聞・雑誌にまで取り上げられていたのです。

 

<其の三>

またA★の熊本県天草の新和町には、古い地図に、「楊貴妃」と云う「字」地名

があって、ここにも古くから楊貴妃渡来伝説があるそうです。


             

熊本大学に留学していた中国の考古学研究のグループが楊貴妃渡来の研究小誌

を刊行しております。

楊貴妃が最初A★天草に漂着し、島民に助けられ、生活していたが、数ヵ月後

楊貴妃の渡来の報が大宰府の知るところとなり、天草を立って、再び天草灘か

ら玄界灘を経て、@★二尊院の長門市・向津具(むかつく)半島の油谷に漂着

した可能性も考えられます。

事実、「安史の乱」(755年〜763年)は、758年渤海から帰国した小野

田守により朝廷に報告され、反乱軍が周辺諸国に派兵される事態を想定し、大

宰府に警戒の強化を命じています。

いずれ述べますが、安史の乱は、楊貴妃に思いを寄せた玄宗皇帝と賊軍の安禄

山そして高力士の歴史ドラマです。

安禄山が楊貴妃の生存を知って、奪回に来る恐れも十分考えられたのです。

本年5月に@★長門市のニ尊院・10月にA★天草市新和町の二か所に電車を

乗り継ぎ、レンタカーで現地に行って参りました。

そして、楊貴妃が流れ着いたと云う双方の海岸線を眺め、想像は大きく膨らみ

ました。

あらためて「寶」の原点に帰って千里の彼方を透視し、「寶」の旅路を辿る事と

しました。

それでは約1300年前の中国から、「寶」を携え楊貴妃が日本に辿りつき、どうして

富山藩まで「寶」が来たのか、歴史を大胆に展開する事と致します。

歴史の重要ポイントは、以下である。

●@「寶」は洛陽「玄元皇帝廟」から長安の玄宗皇帝の元へ届けられたか。

●A楊貴妃が馬嵬から逃れ、「寶」を携え日本に渡来できたか。

●B「寶」が、前田藩にどの様にして渡ったか。

<其の四>

歴史の重要ポイント、●@「寶」は洛陽「玄元皇帝廟」から長安の玄宗の元へ

届けられたか。

それでは歴史の発火点、舞台を唐代、安史の乱に移します。

玄宗皇帝が長安を放棄し蜀へ逃げる時、洛陽の玄元皇帝廟から『寶』が玄宗の

元に届けられ、難を逃れた可能性を推考する。

「寶」安置の「玄元皇帝宮」は杜甫の詠う一節のように、24時間厳重な警護で

守られた唐朝の宗廟です。

神官や特別警護隊も配備された皇城と同格・いや、それ以上の大唐の宗廟です。

安禄山謀反の一報と戦局は、刻々長安・洛陽、相互に早馬で伝令された筈です。

賊軍安禄山の拠点は現在の北京周辺で、『寶』安置の洛陽まで約700kmです。

怒涛の進軍であったと伝えられる約20万の賊軍は、最速でも洛陽に迫るまでは

1520日はかかる筈です。

洛陽と長安、約350キロで、早馬で駅舎を乗り継ぎすれば、2日ないし3日で

反乱の報はもたらされた筈です。

安禄山が挙兵する頃、既に楊国忠に謀反を疑われていたのです。

ですから反乱の報は刻々長安・洛陽にもたらされていた筈です。

神器・太極「寶」は、延人員何千万人を投入し、30年を費やし完成なった唐朝

の宝器です。

神器は天下の覇者、象徴の宝器です。

それを、放棄して玄宗が逃げる事は絶対に有り得ません。

手のひらに載るほどの大きさの神器「寶」です。

賊軍反乱の第一報は、玄元皇帝宮の神官・警護隊に届けられていた筈です。

「寶」は大混乱の洛陽から、早馬を乗り継いで玄宗皇帝の手元に確実に届けら

れた、と考えるのが順当です。

「寶」は間一髪難を逃れたのです。

太平に慣れた皇軍と、実戦を積んだ賊軍と、その結果は明らかでした。

長安の生命線、北の関所、潼関は破られ、かくて玄宗と楊貴妃は「寶」を

抱え、大混乱の長安を捨て、蜀に向かって蒙塵(もうじん)です。

杜甫が戦乱のあと、神器「寶」が奪われた事を悲嘆して歌を詠んでいます。

しかし、安禄山の賊軍が神器「寶」を奪ったのか、玄宗が先に懐に入れて逃げ

たのかは、杜甫には知る由もありません。

杜甫は「寶」が安置された玄元皇帝宮に、賊軍が来て徹底的に破壊し火を放ち、

既に廃墟になった情景を詠んだのであります。

神器・太極「寶」が完成なった天寶元年は、帝国挙げての大祝典を挙行してま

す。

ですから天下の覇者がもつ神器である事は安禄山も十分すぎる程知っていまし

た。

「安史の乱」は天下の覇者象徴の、神器・太極「寶」の争奪戦でありました

神器「寶」を手にすれば、全軍の志気は高まり、形勢は一挙に傾く。

当然安禄山は一直線に玄元皇帝廟を目指した筈です。

しかし「寶」を守護する神官や警護隊により、既に「寶」は難を避け玄宗の手

元に届けられていたのであります。

<其の五>

今一度、賊軍安禄山が発行した銅銭@「得一元寶」A「順天元寶」の意味を考

えます。

@   は天下の覇者が持つ、唯一の「寶」を得た事を、天下に宣言する銭文です。

A   は『「寶」を得た、よって、戦乱は終息に向かった、天下は順天』と宣言す

B   る銭文です。

今日この二つの銅銭はインターネット・オークションに出品され、私の手元

にあります。


     

テレビ・ラジオの無い時代の情報戦略であります。

「寶」の@Aの銅銭は現在の北京周辺で時々大量に出土するそうです。

北京周辺は安禄山の拠点でありました。

戦端を開く前に、勝利した時の準備に戦略貨幣をあらかじめ大量に鋳造してい

たのです。

安禄山の側近に唐朝の政治全般に通じた智者がいた事をビデオ「楊貴妃伝」

は詳しく教えてくれます。

いずれにしても、この天下の覇者象徴の「寶」の貨幣を、事前に用意した事自

体、安史の乱は、神器「寶」の争奪戦であった事は明白です。

その事に注目して書いた歴史書を筆者は一冊も目にしてはいません。

お粗末であります。

<其の六>

玄宗と楊貴妃が逃避行したとき、楊貴妃の姉とその一族、そして宮中の女官も

一緒につき従い、近衛兵も含め、総勢は約2,000人と歴史は語っております。

その時、玄宗は71歳、楊貴妃は38歳で、年の差は33歳でした。

歴史は高力士が絹の布で絞殺したと伝わります。

高力士は玄宗に何十年仕えた忠犬です。

玄宗の心中を読む能力は尋常ではない。

玄宗の目・表情・七癖で、心を読まなくては、勤まりません。

馬嵬まで、付き従った近衛兵が、奸臣・楊国忠とその一族、楊貴妃の二人の姉

とその子息全員を惨殺したのです。

暴徒と化した随兵は、さらに傾国の元凶と目する、楊貴妃の殺害を隊長の陳玄

礼に迫りました。

その随兵の怒りを制しきれず、陳玄礼は高力士を通じ玄宗への決断を進言する。

切迫した状況に玄宗、遂に観念する。

そして、玄宗は高力士に悲痛な思いで、楊貴妃の死を了解する。

そして逃げ場のない立場を悟った楊貴妃は仏に今一度手を合わせる為の時間の

許しを乞うたと歴史は語る。

絞殺場所は別棟の御堂で、立ち会いは高力士と女官だけと伝わる。

楊貴妃と女官の入れ替えも十分ありうる。

検死の立ち会いは高力士と警護隊長の陳玄礼だけである。

確認は二人だけで部下たちへの報告は隊長の陳玄礼だけで十分である。

陳玄礼は、玄宗即位前からの忠臣である。

玄宗に40年近く仕えて来た愚直な武人の陳玄礼は、玄宗の胸の内は、高力士

同様、十分すぎる程分かっている。

●進言は陳玄礼の本意ではない、しかし楊一族を惨殺し、勢いづく部下達の怒

りを収めねばならない。

陳玄礼は高力士の過去の用意周到さを十分知っている。

阿吽(あうん)・切迫の状況で高力士と陳玄礼の密約は瞬時に成った。

随兵等には楊貴妃絞殺の報告は、貴妃の遺衣を高く翳(かざ)し、陳玄礼の一喝で

事足りる。

かくて楊貴妃は窮地を脱し数人の宦官・女官達と共に馬蒐を去った。

インターネットの楊貴妃伝によると、楊貴妃が窮地を脱した可能性を幾つか述

べている。

@処刑は外傷の無い絞殺の手法を取った事。

A高力士は、玄宗皇帝は勿論であるが、楊貴妃にも特別な感情を持っていたと

記しています。

B絞殺の現場は高力士以外誰も見ていない事。

歴史に付け加えるなら、唐朝の神器・太極『寶』が、現実に手元にあるのであ

るから、この等の推論も現実味を佩()びてくる。

<其の七>

時計を戻すと、洛陽から馬蒐に向かう馬車の中で玄宗は自責の念で苦悶する

「寶」は30年を費やした唐朝の神器で有る。

大中華の国家財政をつぎ込んだ、承天の大寶である。

この神器「寶」には、大唐安泰の完璧の呪文が秘められてあった。

「寶」の印面四辺の和は広大無辺、侵すべからずの大唐の国土、永遠の「九」

数位を秘めた寸法である。

東西には日月・北は北極星・南には南極星を配当し、東西南北を中華の軍神と崇める

「孫子」に永遠に警護させる布告と祈?もした。

そして太極・完璧・神の九文字を鎮護するのは有徳の帝王の御世に現れる、

神獣・獅子「白澤」である。

有徳の帝王は己自身であった筈。

焼成の27年間、昼夜を問わず道士達を交代させ護摩を焚かせ大唐の安泰と神器

の完成の読経をしたのである。

そして、唐代一の篆刻師が、3年を費やし印面の神の文言「九文字」を天に祈り

彫ったのである。

重ねて印面は大唐の国土、その寸法は、永遠の九数位の九寸である。

しかし今、大唐の国土は侵犯され、長安から蜀に向かって蒙塵している。

後続の伝令によれば、賊軍は宗廟、玄元皇帝宮に火を放った。

易占革命・神器「寶」の神通力は失われた。

「寶」=皇帝、それはまさしく玄宗自身である。

悲痛まさに自責の念、玄宗は烈火の如く「寶」を馬車の外の地面に叩き投げた。

その時、楊貴妃が咄嗟に玄宗に身を寄せた。

それが投げつける力を削ぎ衝撃を和らげた。

欠損した「寶」を抱き拾ったのは、高力士であった。

「寶」を救ったのは地球上に一点も無い超高密度な「寶」自身と楊貴妃であっ

た。

「寶」印台底部の欠損と獅子の足部の皹(ひび)は玄宗の激怒の衝撃痕である。


     

高力士も楊貴妃も、30年間延人員何百万人動員された、唐朝の国家事業であっ

た事を知っている。

そして焼成に携わった陶工達の祈りを知っている。

しかし「寶」に対する玄宗の夢は消え、最早「寶」に未練は無かった。

「寶」への怒りは己自身への怒りであった。

安禄山が謀反を起こす前、楊国忠はじめ重臣の諫言を聞き入れなかった。

全ては「寶」に対する己の盲信と不明であった。

放心の中に深い悔恨があった。

楊国忠の一族郎党は全て惨殺された。

それでも飽き足らず、随兵は楊貴妃の死を要求する。

いかに楊一族への恨みは凄かったか、玄宗は初めて己の不明を悟った。

しかし玄宗は片時も離れず身を案じる楊貴妃だけは救いたい。

楊貴妃に何の落ち度も無い事は玄宗が一番知っている。

楊一族を取りたてたのは、全て皇帝である自分自身で有る。

楊貴妃には自分しか頼るべき術がない身である。

たった一人の愛する貴妃の命すら守れないで、何の皇帝であろうか。

健気に自分に尽くす貴妃の命だけは、何としても助けたい。

皇帝とて、一人の人間である。

助けたい、その一念は高力士には分かりすぎる程分かる。

玄宗とて、今のおかれた状況は絶体絶命である

玄宗の皇帝としての最後の意地であった。

その玄宗の心底は、無言の高力士も察知している。

深謀遠慮、用意周到・知略に富む高力士で有る。

緊迫の中にも、あらゆる状況を想定している。

<其の八>

「寶」解明時、印台の欠損と獅子の両足の皹(ひび)を見て、この大唐の神器

が何故欠けているのか、膨大な資料に埋もれて思索が及ばなかった。

もし安禄山が取得していたなら、勝利の祝典で天下に示し、粉砕である。

洛陽・長安二京を占拠したとはいえ、戦況はまだ混沌である。

「寶」を粉砕するなら、名実ともに皇帝即位の大祝典の面前で有る。

安禄山の側近が的確な進言をした筈である。

しかし「寶」は難を逃れた。

玄元皇帝宮の神官や警護隊は身に代えても守る。

万一「寶」の取り扱いに粗相があって欠損や紛失したなら、咎めは五族・九族

に及ぶ。

間違いなく、「寶」は駅舎を乗り継いで、早馬で玄宗のいる長安に送り届けられ

たとみるのが、正解である。

それが観えぬなら史家失格である。

<其の九>

ここで、「寶」の流転に関わる、高力士・安禄山の心の暗部に触れて見たい。

歴史は様々な人間の心が綾なすものである。

故宮・美女3,000人、その宮女の中に、群を抜いた百花の妖精、牡丹の花が

楊貴妃であった。

歌舞音曲に優れ、無欲で天真爛漫、愛らしく気品に溢れ、天女さながらであっ

たと、歴史は詠う。

安史の乱の頭目は安禄山である。

その安禄山も絶世の美女楊貴妃に、思慕を寄せていた事を、唐代誌が「フォー

カス」している。

安史の乱の時、楊貴妃は38歳の女ざかり。

玄宗と楊貴妃の養子になって、後宮に出入りを許された安禄山と楊貴妃がただ

ならぬ関係であったと、当時の『文春』は記す。

玄宗と楊貴妃の年の差は33歳、玄宗は71歳である。

生身の男女である、それとて不思議ではない。

安史の乱は、安禄山の楊貴妃への熱い思いが発火の原因の一つでもあったと歴

史は語る。

<其の十>

高力士もまたしかりである。

楊貴妃を市井から最初に見出したのは高力士であった。

高力士は宦官である。

宦官は、欲望を断ちきられた無色透明な、中性生物である。

それだけに、相手の心の裏側を読む、人間洞察は常人では無い。

彼は歴史・文化・芸術そして詩歌に精通した、教養人でもあった。

また玄宗の詔勅の多くを書いたのも高力士で、優れた戦略家でもあった。

大唐を築いた玄宗皇帝の影となる、その危機予知能力も、尋常ではない。

心の洞察なくして歴史は語れない。

高力士には妻も妾も持ち、情欲はゼロでは無い。

高力士もまた妖精・楊貴妃に密かな思慕を寄せていたのである。

牡丹の花を愛でた高力士の目には、百花の王が、まさしく楊貴妃であった。

馬嵬までの随兵の不穏な動きを察知し、その先の最悪の事態も想定している。

絶体絶命の窮地にも、楊貴妃を逃す策と手配は、脳裏に描いている。

欠損した「寶」は楊貴妃の旅路の守り神であり、流転の先の后妃の身分証明品

でもある。

<其の十一>

歴史の重要ポイント

●A楊貴妃が馬嵬から逃れ、「寶」を携え日本に渡来できたか。

現代はインターネット時代である。

@★長門市の「ニ尊寺」と、楊貴妃が熊本の天草に「字」が「楊貴妃」と云う

地名が存在して、そこに漂着したと云う二つの地に渡来伝説がある。

天草渡来の解説によると、楊貴妃が日本に漂着し得たか、現代の海洋科学を駆

使して、その可能性を検証している。

インターネットを要約して観る。

@「新唐書」「資冶通鑑」「長恨歌」いずれの史書も、高力士が近衛隊長・陳玄

礼に身柄を渡さなかった事で一致していると云う。

A玄宗皇帝が楊貴妃の遺体を見ていない事も一致していると云う。

そして高力士の最後の秘策として陳玄礼に密かに国外に逃がしのではと云う。

駅舎馬蒐から天草の経路を説明している。

馬蒐から黄河は近いが、対岸の朝鮮半島は新羅が唐軍を駆逐して統一しつつあ

って危険であったと云う。

★馬蒐から長江支流まで陸路80キロであるが、そこまで行けば短時間で東シナ

海沿岸まで移動出来た。

当時の唐を取り囲む、国際情勢は複雑で国境付近のウイグル・吐蕃・契丹が勢

力を強めていて、その方面では殺されるのは必至であったという。

また新羅が唐軍を駆逐していて朝鮮半島を統一しつつあって、半島方面に逃す

ことも危険であったと云う。

玄宗の側近、高力士の国際情勢の感覚は鋭い。

長江、河口の遥か先は、蓬莱・日本で有る。

<其の十二>

天草渡来のインターネットによると、中国沿岸から、日本に漂着する気象庁の

海流データ―を載せて、その可能性が高いと記している。

中国から天草に向かう黒潮の海流図を掲載している。

また近年、天草地方の漂着物のペットボトルを調べると23%が中国製であると

云う。

中国沿海州から比較的遅い帆船でも、5日程で日本に到着出来ると云う。

渡来が長門市ならば、対馬海流の追い風で有る。

黒潮・対馬海流、どちらでも順風なら5日〜7日で天草・長門に辿り着く。

当時も今日も、中国でも楊貴妃が日本に亡命したという説が根強く燻(くすぶ)

る。

神器「寶」が日本にある現実が、そ

の説を確実に浮上させる。

@★山口県長門市のニ尊院かA★

「字」楊貴妃の天草か、思索は大き

く膨らむ。

はじめ天草に漂着し、一定期間の後、

陸路で現在の北九州市から船で長門市に辿りついたか、それとも天草か

ら岸沿いを伝って天草灘・壱岐水道・玄界灘を大きく迂回して長門市

に漂着した事も考えられる。

さらに、天草・長門双方に、高力士が書いた玄宗の勅書もって軍船で来た可

能性も記している。

 <其の十三>

天草の楊貴妃伝説の小誌の記述を紹介する。

小誌は、地元の楊貴妃伝説に詳しい平田豊氏の説明によれば、熊本大学の田中

知啓先生を中心に中国の考古学研究の留学生グループも協力して書きあげたと

の事である。

現代中国の学生達も、解明「寶」本に驚愕した法政大学で教鞭を取る、王敏女

史同様、楊貴妃渡来説が決して荒唐無稽とは思っていない証左である。

それによると、高力士と陳玄礼の策で、馬嵬から逃れた楊貴妃は、いったん揚

州で身を隠していたと云う。

そして、翌年七月高力士の手配で、軍船で天草に漂着したとの事である。

<其の十四>

それでは●Bの重要ポイント「寶」が加賀藩にどうして伝来したのかに移りま

す。

『寶』の出処が、加賀藩前田利家を経由して富山藩に伝わったと考えるのは、

決して不自然ではない。

楊貴妃渡来から、信長の戦国期まで、「寶」は約800年の歴史の深い眠りに就

いていた。

天草の島津藩か長門の毛利藩か、それ以前は沈黙の歴史である。

確かな事は、日本中の学者が誰一人として異論反論出来ない唐朝の神器・太極

「寶」が今日の日本、富山県氷見市に有る現実である。

それでは、時代を一気に下って、加賀藩前田利家について踏み込もう。

藩主前田利家は織田信長の配下であった。

信長は当時、茶道具などの美術品は日本一のコレクターであった。

当時、ルソン壺1個が一城の値と云われた。

そのブームに先鞭をつけたのが信長である。

たかが、陶磁器されど陶磁器。

乱世である。

茶会は死中の一服の静寂である。

また戦国武将の情報交換のサロンでもある。

信長最後の茶会、本能寺の変で、多くの名碗が炎の中に消えたと伝わる。

正倉院の香木蘭奢待(らんじゃたい)や松永弾正の平蜘蛛の逸話は、信長の鬼

才を物語る。

また当時の足利幕府の足利義満が愛蔵した中国の鑑蔵印も最後は信長が殆ど手

に入れたとある。

足利義満は中国宋の風流天子・徽宗帝に憧れていたと云う。

『寶』解明の初期段階、愚生が『寶』制作の本命と疑ったのが徽宗帝で数カ月間、翻弄(ほんろう)された。

承禎同様、足利義満も認める徽宗の慧眼は天才的で、しかも道教に心酔していたからである。

義満コレクションの中に「寶」が有ったなら、信長な

ら一発でその未曽有の価値を喝破したであろう。

そして信長なら超極秘、「寶」を誰の目にも触れさせ

なかったであろう。

余談だが、極秘に意見を求めるなら、12歳年上の茶

聖・千利休ただ一人であろう。

いずれにしても、秀吉も利家も、その鬼才信長の薫

陶・感化を受けている。

信長が火を付けた焼き物ブームは、秀吉の欲望に火を

つけた。

朝鮮出兵は後世、茶碗戦争と異名される程である。

秀吉の命で朝鮮の陶工部落民、丸ごと日本に引き

連れて来ている。

秀吉が花開かせた桃山文化は、一大焼き物ブームで

もあった。

利休に設計させた黄金の茶室は、桃山文化の象徴で

ある。

その秀吉の最晩年、利家は秀頼の後見人として五大

老であった。

大らかで信長より執着心の少ない幸運児・秀吉が「寶」を手にしていたら、利

家に贈った事も十分ありある。

前田家は関ヶ原でも、大局を観て、今日の

加賀百万石の礎を築いた。

利家から引き継いだ代々の藩主の芸術文

化の造詣により、加賀友禅・輪島の漆器・

金箔技術・その他絢爛たる今日の加賀文化

が花開いたのである。

関ヶ原で敗者となった、天草の島津藩・長

門の毛利藩は、御大家・前田代々の藩主に

取り入る為、伝わった中国製の品々の寄進

の中に「寶」があった事は十分推測される。

 

そして「寶」は分家富山藩に分け与えられた流れも容易に想像される。

現在、富山呉羽山丘陵にある富山藩の菩提寺である真国寺の御本尊・釈迦如来

像は中国製の脱乾漆像で、国宝級と名高い。

愚生は「寶」の流れと、この釈迦如来像の来し方と、オーバーラップするので

ある。

今日に花開く、加賀文化の隆盛を築い

たのは、美術工芸品の好事家、藩主前

田家代々である。

以上歴史の大河は馬嵬から揚子江・東

シナ海の対馬海流・そして天草・長門

と確実に繋がった筈である。

 

これにて、「その三」の末尾に記した「寶」渡来の歴史の●@●A●Bの重要

キーワードはクリアし、1300年前の中国馬蒐から前田藩・富山藩そして我が町

氷見市まで歴史の糸が一本に繋がった筈である。

<其の十五>

歴史の確かな事は、日本の陶磁器研究の第一人者が、焼成不可能と断言した唐

白磁の「寶」が、この日本にある現実である。

神器・太極「寶」の解明と検証は、本件問題以外すべて完璧に終えている。

そして印面には、未来の超ス―パーコンピューターでも創造と解析不可能な唐

代・玄宗皇帝が献呈した「太上老君」の尊号が刻まれた「寶」の現実である。

「寶」は治乱興亡の中国を嫌い、万里の波濤を越えて、現代日本に降臨したの

である。

そして「寶」は、日本一の獅子舞のメッカ富山県氷見市に辿り着いたのである。

これは小説の世界では無い現実なのである。

自然界は水に見られるように全て上から下へ流れる。

反対に財力・富は、その逆で、上に吸い上げられる。

しかし、「寶」は財力がいくらある人でも寄りつかない。

美術品を観る目線の高さ、それに相応しい人格識見が無くては、その人を嫌う。

楊貴妃渡来から信長の戦国期まで約800年の歴史の沈黙がある。

神器「寶」の神聖さと、それを観る人の高潔が、時代を遡っても、美の哲理の

普遍が「寶」を守ったのである。

天草と長門以外に熱田神宮・秩父の法雲寺・京都の泉涌寺にも楊貴妃伝説があ

る。

正倉院の香木を所望した信長である。

三寺院の秘蔵の「寶」を所望した可能性も考えられる。

さらなる検証は各地の郷土史家に委ねたい。

神器・太極「寶」は、人類の至宝である。

愚生は人類未曾有の「寶」自身、至宝に相応しき、1000年先の安置場所を

求めていると思えてならない。

それは日本国のみならず、人類の責務である。

                                      

 

<あとがき>

「寶」の戦いは、日本の威信を賭けた戦いである。

神器・太極「寶」は、国際道義を真摯に貫く、世界の文化が花咲く大和の日本。

列島は大陸との絶妙な距離にあり、山河は、四季の変化に彩られ、五穀豊穣今

年も全国津々浦々で獅子が舞う。

「寶」は、世界平和に貢献する我が日本国に必然的に降臨したのである。

これにて駅舎馬蒐から加賀藩そして獅子舞のメッカ氷見市まで、歴史の大河は

流れ来た筈である。

「寶」の韻文・九文字と同様、愚生の『和漢・太極「寶」歌』何億分の一の

奇跡である。

焼成不可能な「寶」と、和漢太極「寶」歌この二つが厳然たる史実の裏打ちで

ある。

楊貴妃が玄宗と望郷の念で立ったと思われる天草の楊貴妃の像から望む対岸の

島名「獅子島」を眺めて、1300年の歴史の大河を観た。

日本中の歴史家に問いたい。

愚生の推論に矛盾はあるか、歴史の是非をお待ちする次第です。

                         

                                                                            

 

 推論資料

新旧・唐書「楊貴妃伝」

資冶通鑑

杜甫詩選・岩波書店

「宦官」顧蓉著

銭屋五兵衛  若林喜三著(北国出版社)

ビデオ「楊貴妃」

真言宗龍伏山「ニ尊院」楊貴妃伝

天草楊貴妃渡来伝説冊子

インターネット楊貴妃{天草漂着伝説}

その他

平成2911月5日