★・ 補 足

 

なおこの項 「明堂」、即ち「万象神宮」の炎上消失は、妖怪武后の最後の脱皮と、承禎の登場時

期に関わる“歴史の空自”を埋める重大な問題ですので補足します.

明堂は太宗・高宗の世にも計画はあったが果たせず、古来の不確かな礼法を無視し武后の決断によ

り皇宮正殿の乾元殿の地で創建されたと言われてます.

建築の有様は「およそ数万人を役し一大木を曳くに千人・号令に千人和す」もので、そして明堂背

後に建てた「天堂」に安置された仏像は小指の中に、数十人を容れる巨大なものでした.この頃の薜

儀義は「財を用いること糞土の如く」とあり、日く「今の伽藍は宮闕を過ぎ、奢りを窮め壮を極め、絵

画は工を尽くし宝珠は…・云々」と狭仁傑が武后に諌言した程、贅を尽くし国庫が空になる程であっ

たと言われてます.

この明堂が夜中に炎上し、宮城内は炎の明りで真昼の如くであったとあり、この後、自身の不徳を

責め、宗廟にこの事を報告し、“九品以上の内外の文武官に極言正諌を奏するよう奨励し”、尊号「慈

氏越古」の文言を削り落としたのです.

終息に向かったとはいえ、下手に発言しては、生きては戻れぬ“地獄の門”が待っています.執念

深さは五族九族におよび墓まで暴かれます.国家存亡の事態であろうと、とても信じられる妖怪では

無く、宮廷官僚には、絶対と言って良いほど、まともに直言の出来るものはいなかったであろう.

歴史の空白は埋められ、ここに狄仁傑の推挙により、承禎が歴史の表舞台に登場し武后に相対するの

です.(『監獄都市』文献136−560・570・576・582貢より)

尚、武后がなぜ「寶」を瑞祥の改元に載せなかったのか、また武后に進講した承禎の「寶」は、この場

合何であったのかは、武后の妖術に翻弄され後手にまわった私は、それ以上の深入りは避けたが、武后

直筆で承禎の秘文を印した九“鼎”を指したものとしてこの項を展開した.

かさねて鼎とは『大漢和』に易の64卦のひとつの象で、“ものを改める象”です.仏教から道

教に改める、しかしそれまでの政治的方向からは、余りに反動が強すぎる、政治的(表面的)に

は段階が必要で手のひらを返すわけには行かない.しかし民衆と武后支持派の動揺はおさえねば

ならない.よって瑞祥の改元、年号に「寶」は伏せて載せない、女帝武后の政治家としての老獪

かつ微妙な采配と“見る”これで、この章「勅」承禎の進講と歴史の整合がなんとか計れる筈であ

る.

また本文承禎の御進講の中で『大漢和』「寶」の解釈に載る「印章」を武后に話さなかったことに

気付かれた方もおられるかと思いますが、このことは下手をすると承禎の“生死”に関わることは勿

論ですが歴史的にも学術的にも大きな問題を孕み、今後、考証の論点として大きく論議されるべきキ

ーポイントであります。

後世史家の基となす『旧唐書』(887〜947年)は安史の乱(755年)より約130年あとで、見

ると刊行まで約60年間を要している.

本書で指摘した『旧唐書』車服志に載る、唐代皇帝の至宝である“博国璽八寶と承天の大寶など

の考証を見るに、現代同様、当時の歴史家も、唐代史を考証する時に不可欠な“易”哲理「太極」を念

頭に置いていなかったことは見逃せない.

『大漢和辞典』に載る「寶」の訳、神・道・印章・宝、「天寶」の改元、「年」改め「載」そして杜

甫が叫ぶ・宗廟の神噐、そして、皇帝の印には法印と印文を守るため、台座の紐には殆ど神獣が鎮護す

る.

唐代、玄宗皇帝時代に異常なまでに流行した獅子文化、それらに、皇帝文化の神髄「易」の太極を念

頭におけば、八璽の上に戴く「承天の大寶」が朧気に観えるのではと考えるのは酷過ぎるであろうか‥・

大は太に通じ太上・太一に通じる、以上を総合すれば「承天の大寶」が歴史に何を示しているか観える

と思うのだが、この点からも今後記述を丸々鵜呑みにしてするには、歴史家として危険が伴うと思う−

今少し学術的に「易」および、陰陽五行の哲理を念頭に推理検討を加える必要が感ぜられるのだが・・・・

ここに後世のため唐書に載る「承天の大賓」は太上に戴く、太極「寶」のみである事を平成承禎

の名において明示しておくこととする・いずれにしても、盛唐その華・天寶元年に鎮座する太極「寶」

の出現により、今後、唐代史が抜本的に見直される事が確実視され、あらゆる面で想像が想像を膨ら

ませ、今後の推理考証を楽しみにするものです.

余談まさに蛇足であるが、私の書斎(獅子窟庵)に“酒苦く女醜くし今日この頃は獅子窟に入る”と詠

まれた棟方志功の歌が三面観音と共に彫られてある。著者の泣き所、女性としての武后には、大いに

魅力を感じつつも、政治家としての武后に戦慄を覚える私の深刻な愛憎が、透視の目を曇らせる.本書

はあくまで「寶」大本解明の書です、偉大な女帝武后に相対し著者の力量不足を痛感せずにはおれない.

昨今、女性の発言が更に増大し、それにつれ女性の想像を超えた陰惨な事件が続発している・・・

この様な世相の憂鬱に、武后の正しい評価がより一層揺れる.しかし武后の治世下、特筆すべきは、

農民暴動が殆ど記録されていないと言う.妖怪が犯した白日夢は、歴史の小事か・・・我ら凡夫ごと

きが、口を挟む世界ではなかった.

以上、偉大な哲人として中国史に本格的登場した司馬承禎は勿論であるが、この爻、歴史のブラッ

クホールも、歴史小説家の興味津々絵巻であろう、今後のご批判と推論を大いに楽しみにする次第です。

なおこの第6章「勅」の爻に則天武后を配当した道理は最早賢明な乗り組み員に説明する必要は

無いであろうが、なおかつこのように補足を加えねばならなかったのは、武后の陰の妖気があまり

に強烈であったからです.彼女の罪業は、この爻の全ての‘‘汚点”を遥かに上回る事は明白です.

1回目の本書仮本の刊行と、この爻、妖怪武后への挑戦は、ハード、ソフト両面で、無名の墓標

が建っていたかもしれない最後の難所であった、神仏と祖先の加護にあらためて感謝せずにはおれな

い、武后の妖気により、気が乱れあえて補足されねばならなかった六章九爻の「勅」は、歴史の暗部、

女帝に相応しき優美な白鳥座]“玄”に潜むというブラックホールです.そして,現代と酷似した、女

禍の時代その犠牲者に捧げる鎮魂の爻でもあります.

最後に歴史部門最大の闇、この爻の責任だけは、深いご理解と御厚情を戴いた方々(第8章5項に

戴く、諸先生並びに各位)の御名誉のため、いかに自負ありと言えど、余りに遥かな歴史の彼方で

す、その責めは一人平成承禎だけが負うべき史観である事を、歴史に明記し後世のご批判を仰ぐもの

です、深い陰気の底にも一条の朝日が差しこむ、陰気は光につつまれ次第に上昇する.大方のお叱りを

背に「大和」を反転し陰極の果て、ブラックホールを脱し第七章、北斗の陽爻へと一気に加速する。