7章「水」・唐獅子に「寶」を観る

 

伝承に漢の武帝の時代、ランオンが今日でいうシルクロードをへて中国に連れて来られたと言われて

ます。

神獣獅子の類型に「天禄」「壁邪」などが、漢代に神獣として創造されたと言う。

白獅子「白澤」は、さらなる太古、黄帝伝説に遡るが、その獅子は『旧唐書』(文献13−84貢)に

波斯國より献上されたと記されます。そして玄宗の治世に一挙大量にその勇姿を現したことが観てとれます。

先日NHKで放映された獅子舞いの特集番組の中で、『日本書記』612年、「伎楽」に獅子舞いがあった

と伝える所から観れば、唐代、玄宗皇帝以前より、武后が生まれるかなり前に獅子が来ていたと

推定できます。『聖獣伝説』(文献71−135,136頁)を観ると唐代の獅子の文物は、それ以前にも増

して獅子の姿が多様性を帯びた事、又、他の聖獣の姿が“獅子化”し、その量が一挙大量に創造された事

が“読観”とれます。

たとえば、年間最低50億(本社に問い合わせる)以上、商標に載るキリンビールで有名な文字通り

鹿を基本形にする一角獣「麒鱗」の容貌ですら唐代この「寶」の影響を受けて獅子化したのであります。

即ち、貴方の晩酌の手元まで「寶」の宝力が及んでいるのです。

この聖性のシンボル麒麟の一角が、現代日本の獅子舞いの獅子頭にも多く観られるのです。

元々、四方を海に囲まれ四季を織りなし、微なる湿温と山河に恵まれた日本は、明治維新後の西欧

文明に急速に追いつきました。また戦後の驚異的発展を見るまでもなく、グローバルな地勢学的恩恵

を授かり、文化的にも高い資質を生む土壌と下地が溢れ、太古より世界的水準を遥かに上わまわる民

族でした。

今日でも世界のあらゆる技術や商品そして多くの文化は日本を経由する事により、ざらに各段に

精錬、深化され多面的、かつ機能的に文化価値がより付加され再び世界に還流されているのは承知の

通りです。

奈良時代、天皇の勅命を受け日本の万代の礎を築かんと住吉大社の水神に祈り命を懸け海を渡った遣唐使達。

その彼等がもたらした中国唐代、開元〜天寶の精華「正倉院」の宝物にも獅子文化の量と多様性がハツ
キリと観

えるのです。

『正倉院寶物』(文献66)を見て戴き、龍・麒麟・その他の神獣と、獅子との数量や多様性を比較して戴けれ

ば、一目瞭然です。




2 正倉院寶物(文献5転載)             1正倉院寶物(文献5転載)

多くの仮面が載るが、個別には二ないし三個でも多い方で、獅子が八面もあり圧倒的に多いのです。

また布裂に、当時貢上品として獅子が長安に飼われていたのでは?と伺わせる程、実に写実的に、

獅子が織り込めてあります。

叉、写真2「紫檀金細柄香炉」の獅子は、横向きで「寶」を想像させ、同種の香炉に全部で6頭の獅子が

います。

その他、写真集を丹念に数えて見ると、実に50頭近くの獅子が確認出来るのです。

花鳥鳳凰を除くと古来の神獣を駆逐し、その数と多様性は完全に他を圧倒しているのです。

とにかくこの獅子の数は、私の目を通した正倉院研究書に、格段注目して取り上げられてはいない

が、私の目には、異常と映るのです。

玄宗が当時、全国に建てた「真府玉芝観」その他の観や宮に自分の象徴である獅子を、金・銀・銅・石

像や絵画その他に細工し奉納したことは、間違い無いであろう。

その為、多くの分野の職人達が唐朝の意向と流行を、いち早く取り入れ、競った事が読観とれる

のです。

もちろん中華の帝王と自負する玄宗でありますから、中国のみならず世界に広める為、外国使節団

に積極的に獅子の文物を、より多く持ち帰らせたことは、想像にかたくありません。

当然、遣唐使達が、当時その数々の獅子文物の偉容に接した事は間違い無いのです。もちろん当時で

も、世界のトップクラスの知的水準、文化の受容能力を有する「日」の「元」の国・日本です。

天皇を中心に和を尊ぶ我国ブレーンは素晴らしい英断をもって、それ以前より仏教を国の表の「四

柱」となす。そして、日本固有のシーマニズム信仰と、中国より伝えられた、この「寶」の思想す

べてを整理、融合し、それを更に昇華・発展させ内懐深い「主柱」として秘め、万代の基礎を構築する。

正に、この知的受容能力と、それを整備・補完し、より昇華させる能力、そして感性溢れるバラン

ス感覚こそ風土に育まれた大和民族のDNAなのです。

それなら遣唐使たちが伝えた「寶」の文化は、今日の伝統文化及び神事の中に必ずや観れる筈です。

今、あらためて晩秋の我が町内と近くの寺社を久し振りに散策し、獅子を探し数えて見ると、方法と

形を化えて実に30頭以上も確認できました。

恐らく全国の総数はとなると、今日生存するライオンの頭数よりも確実に多いことでしょう。

唐は今日、中国の代名詞となっている程で、「唐天竺」の様に遠い所や広義の異国を指す場合もありますが、

「唐紙」「唐織」「唐獅子」等は渡来文物の多さから名付いたものでしょう。

その中の一つ「唐獅子」は、道教的影響を地下水脈に秘め日本各地の神社や宮の境内には、たいてい一対

の獅子が守護神として奉納されています。辞書に拠れば、「寶」と同じ位置、向かって右、即ち神社の左側

獅子で反対側が「狛犬」とされます。





太古の昔より、男女和合の国であった日の元の国は、万代の礎をさらに固める為、この獅子を男神・

女神と分けたのです。

日本民族は、これ以前、遥か太古より女性を“差別”せず、それぞれの性を“区別”し、互いに尊

重してきた民族です。

三世紀邪馬台国、女王「卑弥呼」の存在や大和の持統天皇など女帝存在を観れば、元々まったく拘り

がなく、当時の諸外国から比べて男女平等、むしろフェミニストの国でありました。

(陰陽統合の象徴天皇については『陰陽五行と日本の天皇』文献159を読まれたし)まさに“和”をもっ

て“尊し”「和合の精神」であり、この女神として配当した「犬」は、太古より狩りや番犬とし

て元々付き合いは古く、親しまれて来た獣です。

遣唐使が獅子の勇姿を見たかは定かではないが、伝え聞く話しから中国の大型犬で護衛犬として働

いたチャウチャウのさらに大型と想像したとしても不思議ではありません。



 ペットブームで、ランオンの風貌に似ており、狛犬の原形を彷彿させるチャウチャウを観たが、

なかなか堂々として風格がありました。

とにかく、獅子と犬では力の優劣が有り過ぎ、守護神としてバランスを取る為、「狛」犬、即ち

神の獣と格上げし、「角」を献じ釣り合いを計ったものと想像されます。

この「狛」の文字を観察すると、「白」と「獣」の偏、二つに分けられます。神社に鎮座する

獅子は殆ど“一対”であり、一対とは二つで一つの事であります。

もちろん「白」は神の色、神獣「白澤」の色であることは申す必要もありません。この「白」

と獣偏の「獣」、そして「獅子」が合体すると“白い獣の獅子”即ち『白澤』となり、「寶」の

獅子・アポロの完成です。

そして、詳細は分からないが、この事について何か色々と仏教的いわれもあるそうです。聞く

所によると、この狛犬と獅子の事を、「阿」と「吽」と言うそうで、「阿」が男神「吽」女神で、

俗に言う“阿吽の呼吸”です。

1章5(注)に私が指摘した通り、『山海経』の道教の女神「西王母」の注釈に、‘‘角「牛」

の如し”とあります”。「吽」と「牛」で、偏の「口」だけの違いです。

「犬」の狛犬に「牛」の文字は不似合いで不思議ですが、もし私の説に起因するのであれば、狛犬

の「角」も自然に受け止められます。

この“阿吽の呼吸”は道教法術、”気”の一法、男女“和合の気”であり、気が満ちる・気を吐く

であり、気合いなどの法術を秘めると“観”るのです。

一般の辞書には「狛犬」は朝鮮「高麗」の犬とありますが、『大漢和』には起源種々の説で一定しな

いとあります。

『道教と日本』(文献106)の『法皇帝説』に、聖徳太子が道教を研究したとあります。下って、宮中

御座の左右に獅子が鎮座し天皇をお守りしていた事が『枕草子』『栄花物語』に記されてあるいう。

そして正倉院に、この二体と成る定めの暗示か、金泥で左右対象に獅子を描いた半臂の衣装が納めら

れてあります。また全国に3800社の分社を持つと言う「日吉大社」の神殿の階の上に、狛犬と同義語の

獅子が奉られてあるという。

正倉院を映し出すと言われ、唐文化を今に伝え、あの阿倍仲麻呂が謳い含んだ「春日大社」の舞楽に、

「左舞」が「唐楽」・「右舞」が「高麗楽」と言い、国宝「白磁獅子」(宋代)と「鋼造狛犬」が秘蔵さ

れてあります。

かさねてのべるが今日全ての科学および文化全体を‘‘観”渡せば分かる通り、日本民族は優れた異

文化に対しての、知的摂取能力は旺盛で、かつ拘りがなく、その能力は遥か太古より遺伝する、大和

の国のDNAであります。

当時あらゆる海路を経て摂取した文化を、日本固有の文化とブレンドした結果が今日に華開いている

のです。

今一つ日本民俗芸能で、北は北海道、南は沖縄・八重山諸島にまで分布し、古くは「伎楽」や「神

楽」などから流れを汲み、更に大衆化したものに「獅子舞」があります。この獅子舞の「唐獅子」に

も遣唐使達がもたらした多様な獅子面が観られ一角・二角と多彩です。

この中国唐代「寶」の「白澤」を地下水脈に秘める、日本シャーマニズムの祭典は、“雨乞い”

“悪霊はらい”“五穀豊餞”と勇壮華麗に舞われます。

中国故宮の門に鎮座する一対の獅子を、別称「天子諌言の獅子」と言います。

玄宗皇帝の‘‘師”は司馬承禎で、この異名は「寶」の獅子より始まったのです。

そして故宮、皇帝の玉座に一対の獅子が鎮座する。長崎商科短期大学、元非常勤講師・竹野忠生先生は、

心眼をもって狛犬・唐獅子のルーツは、この故宮、玉座の獅子からであると“喝破”しておられます。

『狛犬学事始』(文献50)。

この偉大な獅子アポロは、獅子の生息しない日本はもちろん中国・朝鮮・ベトナム・インドネシア・

バリ島など東南アジア全域に形を化え、今日もなお生きずいているのです。

全て、この「寶」の獅子アポロの光が、1300年の時空を魅えて照らしているからです。

今、私の、心の中に0コンマ1%の疑問も無いのであります。

諺に“(唐)獅子と牡丹”があります。辞書に、堂々たる獅子と華麗な牡丹の「取合わせの良いたと

え」とあります。

唐代、詩聖・李白が「清平調詞」に、楊貴妃を牡丹の花にたとえてます。

盛唐の「寶」の紐「白獅子」と「楊貴妃」を両手に華で、まさに“唐獅子牡丹”です。玄宗の喜色満面

の笑みが観えるようです。

以上、この獅子信仰は東南アジア全域に広がり、その面域は万里の長城を凌駕する。そして「寶」の神

知の空域は5000年の時空をも越え、遥か大宇宙、北斗の太極の光となって、その面域全てを“眼下”にする。


沈香亭
 玄宗が常住して政治を執っていたのが、長安城春明門内にあった興慶宮である。
その中の沈香亭には牡丹の花が美しく咲いていた。ある日玄宗と楊貴妃がここに
李白を呼んで詩を詠ませたところ、楊貴妃を牡丹の美しさになぞらえて作詩した
ことは名高い。









            
       正倉院獅子追加資料