第6章「勅」・則天武后
この間題、即ち承禎が武后に拝謁したのは何時か、天印「賓」の印文を武后に果たして上奏した
のか、武后による「寶」制作の勅令はあったのか、この自問自答は、私にとって、長く心の底に
巣くう悩みで、問題を先き送りしてきました。
璽を「寶」に改称した時期は、『大漢和』にも『唐書』の「車服志」にも見あたりません.実際あ
れほど詳しく唐代のことを調べられた。
『監獄都市』(文献136)にも「寶」の記述は載っていませんでした。
私には「寶」の存在と驚異を示せば、それで十分ではないか、との思いがありました.そして後
世この問題に踏み込むことによって、本書の価値が、問われるやも知れないという、幸い悩みが
ありました。
しかし、もし唐代以後の一切の史書に載っていないものと仮定したら、見識ある方々は、まずもって踏
み込みを、なされない可能性が考えられます.それでは、歴史の真実は永遠の闇にあり真の光は差
し込まない、この「寶」自体、武后のあの忌まわしい時代と、決別し「開元」即ち、元を開き、政
道をただす新時代の象徴として焼かれた「寶」です.それでは、希望に燃え一心不乱「寶」を焼い
た名も無き、陶工達の心は永遠に浮かばれない.自分なれば失うものは何も無い、又間違いを犯す
事になったとしても、それは私個人の問題であり、偉大な「寶」そのものの価値は一切不動です.
ここは私の全精力を使い果たしても、最後の“気”に全エネルギーを注ぎ、700年代の唐へタイム
スリップせねばなりません。
ついに、この希代の女帝「則天武后」と相まみえる日が来たのです。
避けては通れぬ「寶」の道です。
私の執念が通じたのでしょうか「寶」改称の年が『中国の印章』(文献20−11貢)で発見したの
であります。
さて「則天武后」というこの女帝の信じがたい諸行の数々は、小説の世界や観念で理解できたと
しても、現実にはとても受け入れがたい史実であります・多くの無垢で、単純で、誠実な人間達を手
玉にとり、女の命を生贄にし、陰謀の限りを駆使し、冷酷無比、血を畷り、人間の心の隙間、時
代の間隙を縫い、ついに中華の檜舞台、歴史の主役に踊り出た希代の女です・栄耀栄華、享楽の限
りを尽くした、中国史上、最初で最後の女帝、魔性の女“妖怪”であります。
しかし、この幾千年に亘る治乱興亡の中国史を通観して、空しい一傍観者として見た時、これも
歴史の要請、時代の必然であろうか.いずれにしても名も無き民衆と、歴史に登場しない闇の支
持者がいなくては、妖怪の登場と「周」の成立はあり得ませんでした。
広大な国土・治乱興亡の歴史・名も無き民、それらが渾然一体の土壌となって、この妖
怪を生み出したのです。まさにこの名も無き民と、広大な大地こそが、彼女の最大の理解者、支持基
盤です.ともあれ歴史に対し責任を負い、直視しなければ私のこの心に巣くうわだかまりを、永遠
に消すことは出来ません・また本書の完結もありません。
それでは「寶」と承禎に関係する、武后の晩年の略年譜を迫って見ます。
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628年武后生まれる 647年承禎生まれる 688年明堂建て万象神宮と号す 689年第一時則天文字制定 690年「周」樹立『大雲経』全国流布を命ず (武后67才) 694年 延載元年5月 改元 璽を「寶」に改める.
同 年 聖暦
改元 九鼎を鋳し、通天宵の庭に置く 来俊臣棄市される。張兄弟寵愛受ける. 698年 聖暦
公文作大字制」公布・秋仁傑、突蕨討伐. 699年 聖暦二年
李哲神都へ召喚され皇太子に立てられる. 官僚の粛清止む。700年 久視 改元 嵩山、三陽宮に療養行幸. 革命暦廃止、狭仁傑 永眠. 701年 大足 改元 705年 武后長病の床に就く. 705年 神龍元年 唐復活・武后死去. |
『則天文字の研究』(文献17−12亘)『監獄都市』(文献136−520亘)
の年表参考・「寶」改称は『中国の印章』(文献20−11貢)
幼少より熱心な仏教徒であったと言われる母の影響も多少あったであろうが、武周革命推進の力として武后は、
仏教を政治的にフルに活用する。
その意味で、歴史の暗部にこの希代の妖怪の諸行の数々を黙殺し、支持補完した信徒がいたことを忘れてはな
らない。それはさて置き、あの『大雲経』を全国に広め、諸州に大雲寺を建立し、自らを弥勒菩薩の下生とした武后
が、いつ道教に変身し璽を「寶」にしたのか、上記年表を見ると694年延載元年です。
翌695年あの怪僧・薜懐義が「万象神官」に火を放ち自らの手で灰塵と化した、この翌年696年、嵩山封禅を行い
大赦を発令「万歳都市」元年と改元し、全国に当年の租税免除を宣する。
そしてこの年、太廟の祖霊に封禅を報告し「神嶽」と改名した嵩山の天中王を「神嶽天中黄帝」
その霊妃に『天中黄后』と尊号を献呈する.(『監獄都市』526真より)同年「万歳通天」と改元し
再建成った。
明堂(万象神宮)を「通天宮」“天に通じた宮’’と高らかに宣言する。
幼少より熱心な仏教徒であったと言われる母の影響も多少あったであろうが、武周革命推進の力
として武后は、仏教を政治的にフルに活用する。
その意味で、歴史の暗部にこの希代の妖怪の諸行の数々を黙殺し、支持補完した信徒がいたこと
を忘れてはならない.それはさて置き、あの『大雲経』を全国に広め、諸州に大雲寺を建立し、
自らを弥勤菩薩の下生とした武后が、いつ道教に変身し璽を「寶」にしたのか、上記年表を見ると
694年延載元年です。
翌695年あの怪僧・薛懐義が「万象神宮」に火を放ち自らの手で灰塵と化した.この翌年696年、
武后が仏教から道教へ180度の転換を演じ、政治の流れを変える.まさに妖怪たるべく大変身を、
満天下の中で演じる.『監獄都市』526貢によれば、696年、嵩山封禅を行い、大赦を発令696年この
時、武后68才・承禎49才で二人の年は19才の開きです。
承禎の號を別名「中巌道士」と呼ぶ。
承禎はあらゆる霊山に入り、真人の道士や仙人を求め、道術を極めるべく当然、嵩山にも分け入る。
この嵩山に武后、封禅を挙行する。
封禅を行い、大赦を発し「通天万歳」と改元を行う.昇仙の願いが天に通じ聞き入れられた事を天
下に示し、祖霊に報告し、道教の主神「黄帝」を祭り五岳の中央・中天に、自らを重ね合わせた「天
中黄后」の尊号を奉じた。
695年この年、封禅挙行の前が武后、承禎の歴史的出会いであろう。
遂に歴史のお膳立て檎舞台は整えられた。
年表を見れば、武后が急速に体が衰え祈願と療養に再び嵩山に向かう700年まで、実質4年程しか
ない.
承禎49才、伏龍ついに姿を現す.あらゆる道術を会得し森羅万象に精通する不動の泰山である。
道教界の期待を一身に受け、その旗頭として天后に拝謁するに、気は天に満ち承禎天命を拝する。
これ以前の年代では武后の仏教偏重、情夫薛懐儀の存在からしても、当然有り得ない.又いかに承承禎
と言えど、これ以前の年齢では希代の妖怪と、会い見えるに気は天に満ちてはいない.二人の正
式の出会いは、九鼎が完成する697年までの一年数ヶ月の間と推理する.それまでの経緯と方向か
ら見れば、武后の大変身であり、心理的、政治的に考えられない衝撃的転換である。
最早、敵無しの独裁者であっても、周帝国の天后であり、変身の政治的プロセスは踏まなければ
ならない、諸事抜かりのない妖怪であればある程、歴史の痕跡から、観えてくるものがある筈で
ある.その軌跡を辿る.天下衆知、国庫が底をつく程の莫大な巨費を投じた巨大な“バベルの塔”
を情夫、薛懐儀が放火したのです.薛懐儀の処遇と自らの心の整理は“瞬時’’に決した、しか
しその始末、世情の沈静と掌握の為にも、流れを一挙に変える政策が必要である.宮廷内は力で
封じ込んだとしても、騒然とした世情、その民衆達が領き納得し得る人物.政策転換を政治的に
理由づけし、かつ整合性を与え、天后の尊厳を保ちうる人物、それには天下に名を馳せ、森羅万
象に精通し天下万民に尊敬される人物の登場が必要である.武后自身の嗜好でもあったが、これ
までの薛懐儀に代表される豪壮、絢爛なる仏教色と対称的人物、世情の沈静と、人心一新、これ
をなしうる象徴的人物の登場が不可欠である.放火の犯人が僧侶の頭目であるから仏教側の代表
では到底収拾は無理である.儒者はこれまで天道を踏みにじる女帝に、骨抜にきされた御用儒者で
あり論外である.この異常事態乗り切りには、重大な政治決断をせねばならない.武后、承禎の出会
いは、「万象神宮」消失から、嵩山封禅の前後の、ごく限られた時期であろう.
さて万象神宮は情夫、醇懐義と龍床で蜜談した、周帝国の象徴、武后の総仕上げといえる大伽藍
である。その統べては、武后が女の命の代償を払い造り上げた「周帝国」そのものである.
武后の戦略、仏教を背景に強力に推進してきた「大周革命」その“政治的総仕上げ”最大のシンボル
である.かっての帝王たちが、幾度も計画に上げながら、果たしえなかった、天を祭る祭壇である.
世界の中心洛陽、この帝都のだれ一人視界に入らぬ者がいないはど巨大な塔である.『則天武后』(文
献139−113真)によれば高さ89m万90mであったと伝える.まさに有史以来最大の巨大なバベルの塔
が、神都宮城の正面に出現したのである。
『監獄都市』(文献136−565亘)「都を去ること百余里の外にして、遥かにこれを望見る」(同文献
136−575貢)『旧居書』「長孫無忌伝」とある.。
この万象神宮が紅蓮の炎に包まれ、巨大な火柱となって天を焦がし、夜空を染め上げながら、猛火の中に
崩れ落ちる様は、さながら周帝国が瞬くまに、崩れ去るが如きに映ったであろう.しかも、特等席で、
私は皇城から直線でどれぐらいの距離に建てられてあったのかは、詳細な資料は持ち合わせてはいな
い.しかし妖怪の破裂せんばかりの心臓の鼓動が聞こえる.政治的足元は、今にも奈落の底へ崩れそ
うである。さながら武后自身と周帝国を同時に焼き尽くすほどに、狂喜する民衆の歓喜と、どよ
めきが妖怪にハツキリと読観とれる.妖怪には、瞬時に事の重大さを察すると共に、薛懐儀との訣別の
心は、未練などの問題の入る余地は一切無い、対応は即座に決まった.妖怪には宮廷はもとより、民衆
の動揺と不安は、生易しいものでは無いことは、即座に判断できる、天を恐れぬ諸行に対する天罰
である.今にも天地崩れ、大飢饉と大地震日は隠れ、天下大乱の始まりを予感し、民衆は恐れおの
のいている…‥“現代では無い”まさに“龍”や“雷神”が絶対かつ100%信じられて
いた時代である.妖怪には、民衆の阿鼻叫喚の惨状と絶対絶命に立たされた自の政治的立場は瞬時に
理解した.妖怪の政治的計算と対応、そして行動の素早さ、適確さは、ほとんど動物的であり背後から妖気が漂
う.この妖怪武后の心の深刻さと、時代生きた人間達の天神・龍神・雷神などに対する、絶対的恐れと
信仰が観えずして真の歴史は観えない.それは正に“虚’’の歴史である.いずれにしても今日まで
彼女が戦ったのは、自らの生存を脅かす、皇帝の女達であり、唐朝の血脈であり叉、政敵者、旧態の
官僚群である.彼女の手足となった、初期の秘密網は名もなき女官、宦官、仏教勢力であろう.武后
も再婚した母の三姉妹の真ん中、彼女もまた、父親が功臣の列に連なっているとはいえ、八歳で父を喪
なう寒微の家しき.妖怪の政治的計算と対応、そして行動の素早さ、適確さは、ほとんど動物的であり背後から
妖気が漂う.この妖怪武后の心の深刻さと、時代生きた人間達の天神・龍神・雷神などに対する、絶対
的恐れと信仰が観えずして真の歴史は観えない.それは正に“虚’’の歴史である.いずれにしても
今日まで彼女が戦ったのは、自らの生存を脅かす、皇帝の女達であり、唐朝の血脈であり叉、政敵者、
旧態の官僚群である.彼女の手足となった、初期の秘密網は名もなき女官、昏官、仏教勢力であろう.
武后も再婚した母の三姉妹の真ん中、彼女もまた、父親が功臣の列に連なっているとはいえ、八歳で父
を喪なう寒微の家の出である。複雑な家庭で幼い女は否応なく女を知らされ、幼ない心の内面に複雑
な影を落とし”蛹”は“蝶”となり「妖怪」となった。
その妖怪の、唯一の理解者、支持者は先に述べた名も無き民である。
その庶民に当然、この伽藍の観覧を許し共に大周帝国の建国を、盛大に祝った筈である。
その民衆が、歓呼と共に悲鳴を上げている・・・・.この妖怪武后の動転と衝撃の深刻さ、その度合
が観えずして、この爻の史観は観え無いであろう.多くの歴史家は薛懐儀の放火は情を移した武后へ
の嫉妬と簡単に片付ける。
勿論、気高い学問の世界は、下世話な男女の世界に立ち入る必要性は無いであろう.しかしこの
怪僧の心の自負心、文字どおり裸一貫伸し上がった男の複雑な心の交錯、胸の内が観えなくては、
共に机上の考察となる.中国版ラスプーチン薛懐儀、彼も時代の歴史を彩った男である.彼の名
誉の為にも、一言付け加えておきたい.男女の単純な嫉妬だけで放火したのではないことを・・・・。
ともあれ、民衆の安穏と太平こそが武后の拠り所であり支えである.民の心が離れては妖怪の明
日はない.これぞ妖怪を支えた唯一の帝王哲学である.振り返れば人一倍、女の欲望と生への執
着の強い武后が、有無をいわさず世俗から切り離され尼に落される、まさに“一度は死んだ武后であ
る”。
そして武后にとって、この地獄から這い上がり、女の死闘にわが子を自らの手で生贄にし、宿敵た
ちを次々に陥れ、過烈に殺戮の限りを尽くした諸行の上に築きあげた、周帝国の太平である.この武
后がわが子を殺し、罪を皇后に着せた史実に後世その真偽に論争があるとのことであるが、このこ
とも、この爻をご理解頂く為にも、武后の歯牙にかかり犠牲になった多くの人の為にも、そ
して妖怪となり朝政を仕切り、より苛烈に粛正を行った武后の心の悲しみを汲み取る為にも、間違
いなく“生け贄”にしたことを確認しておきます.この事実に異論を唱える方は、間違いなく妖怪の
餌食となり、再び生きては戻れぬ、あの有名な地獄の門をくぐることになるであろう.以上、わが
子の生贄をスタートに数え切れぬ殺教を直接間接に指揮命令し、七十を越え張兄弟を寵愛する絶倫
の妖怪である.いずれにしても、この妖怪に仕え鉄の意志、不屈の精神を持ち絶対絶命の死地から二
度も奇跡の生還を果たし、妖怪にも遂に気取られる事なく、周帝国の幕引クーデターの首謀者達(東之、
眺崇、敬曙、他)を推挙配備し、天寿を全うした。
秋仁傑が武后に忠節を尽くした唯一の心の拠り所、自らの心の支えも、天下万民の為、この一点である.
宮廷外の民心を観る能力、これぞ妖怪武后の自負である.万民の喚声と歓喜は、まさに衝撃であ
り、その紅蓮の炎に、瞬間、周帝国崩壊その幻影を観たのである.酷史、来俊臣の棄市、彼に対
する民衆の激しい憎悪を知り粛正を急がせ、終息に向かわせたのも、民衆の密告熱と興味が最早、
終焉を迎えつつあることを、この時‘‘鳥肌”で感じたからである。
文官選考に科挙制度をさらに充実し、使える者、異能の者、有能な人材は身分を問わず抜擢、自
らもその選にあたった武后である。
何時の時代も大衆は流行に熱しやすく、そして覚めやすい。
まさに烏合の衆、権力に弱く利に聡い、そして、いったん弱みを見せると妖怪でも手がつけられ
ぬ.この衆愚の本質を習熟し、仏教熱を煽り、密告の法を奨励し、事ある度に煽動してきたので
ある.中華帝国の歴史に足跡を残すであろう偉大な周帝国、この宮廷内は最早完全に制圧しても、
時として妖怪よりも残虐で、得体の知れぬ、愚かな民衆と、その世論の“表裏’’の怖さは、誰よ
りも妖怪自身が知っている。
この一大政治転換に狭仁傑が、その人材を武后に問われた時、承禎を推挙した記録は私の手元に無いが、
クーデター後、幽閉された武后の目に、秋仁傑と承禎、二人の顔が鮮明に映ったであろう・・・・.こ
の自尊心の異常に強い妖怪にとって、二人の心の底を読み切れ無かったこと、そして天地に唯一信じ
た秋仁傑が裏切っていたこと、この二点は天が武后に与えた“万死に値する極刑であった”。
彼女に残ったものは空しい「虚」の歴史だけである.「朝道、空し矣」と妖怪が泣く、その全幅の
信頼をおいた彼が、まさにあの世からクーデターを指揮したのであるが、この絶対の窮地に立った自
らの政治的対応、政治転換、それに相応しき人材の登用を当然この鉄人宰相に必ずや相談した筈であ
る。
武后の魔性が潜む、心の深淵は彼女が直接間接に関与した則天文字よりも「昇仙太子碑」の怪奇な筆体
に観ることができる。(本書の掲載を拒絶する)。

もし妖怪の書体をみて、清新な感動をもって賞賛される人は、天印「白獅子」の偉大で、崇高な
勇姿は永遠に御理解いただけないであろう.ともあれ、璽を「寶」にし、それまで仏教を政治的
に利用し、自らを弥勤の下生としてきた武后が妖怪よろしく、道教に変身したのである.武后の闘
争本能、生き様は積極果敢、我が身の保身安泰に対して、一瞬のためらいも手段も選ばぬ、そして事
の本質を見る目と人を喚ぎ分ける能力、危機予知能力は尋常ではない.この希代の妖怪・武后と今
や、仏教信者の巣窟とも言える伏魔殿での一大説法である.この妖怪に賞賛され、無事帰山した承禎
の出現は、隠れ唐朝派の人達を勇気づけ、宮廷内外に承禎の偉大さを鮮烈に印象づけたであろう。
当然、700年嵩山に造営なった、三陽宮は、天印の文字、三桁体の意味である。
ここで気づかれた方もあろう、制定した則天文字「図@」を見れば「日」「月」「君」の文字が天印の文
字と違う▲これは何を物語るか、当然承禎は天印「寶」奇跡の印文を妖怪に教え無かった証拠である。
今一つ、もし武后が、この「寶」の印文を承禎から告げられていたら、迷うことなく、勅令を布
告せねばならない事がある。
妖怪には印文の神知を理解できるセンスはある。
「寶」の文字を入れた瑞祥改元である.あれだけ頻繁に改元した武后である.視朝以来20年ばかり
の治世に18回もの改元を行った“改元偏執魔”である.‘‘間違いは無い”私の五年に亘る、
暗雲と胸のつかえは、遂に払拭された。
希代の妖怪を遥かに凌駕し、彼女の人生の軌跡と、心の暗部一切を薄紙を透し観るように透視し、承禎は拝
謁したのである.クーデターの磐石の布石を打ち静かに去った狭仁傑と共に、大胆不敵この妖怪を真っ向
から諭し、欺いたのである。
それでは承禎の説法は何を話したのであろうか。
妖怪を得心させ、天下の王道を正した、その承禎の説法の一端をまず武后、嵩山封禅の儀に観る。
嵩山(河南省、登封県)は五巌の中央に位置する霊山である。
つまり、天印の印文の道理を理解戴ければ、お分かり戴ける筈である。
嵩山は聖なる五山の中央・天印・中央・五文字の中心・老の文字にあたる天の中央・中天に聳え
る聖山である.昇仙の道が開かれている天に最も近い所であり、最も重要な宇宙の中心である.
印文中央は「玄」なる所、「玄牝の門」にあたる所である.天と地、陰陽が重なる、母なる大地の中心で、
女性であり天后である、その天后に最も相応しき、陰陽一体の極地、聖なる山である.陰陽は元
「一」であって、天后は天の意思により定められた、大周の天后・天子と陰陽「一」なる中華のです
その天と地・陰陽「一」つに交わる嵩山は「黄帝」を祭る中央・中天です。
先に記した、武后が「黄帝」と「黄后」を同格に祭ったのは、自らを重ねた事である.まさに天
后、道教の祖・黄帝と陰陽一体となったのであります。
「寶」改称は礼法が伝わる太古より、天子の基である、最も重要な問題、一連の則天文字の改革など
比較にならない、歴史的大問題である筈にも拘らず、今日この、命題に関した研究書はみあたり
ません。
大唐の神器たるべく、天子の最も神聖かつ重要な歴史的問題です。
天后は“古を越えた”聖帝と、自らの等位を「越古金輪聖神皇帝」とした。
いかに天井知らずに積み上げても、漢字を創造するだけの武后である、その意義の持つ重大さは、
誰よりも理解していると自負する天后である。
天道に照らし百官に計り論議を尽くさねばならぬ聖域である.手元資料不足であるが、この一大
変革に関し後世、考証された跡は今の所みあたらない。
この大問題に関し本書「寶」の出現により今後専門家の手により論議されるであろうが、この項
(爻)と承禎の為にも、さらに史観を展開せねばならない。
これまで、唐朝を破滅させ天道を踏み躍り“牝鶏司晨”と影で誇られ来たことは武后も知る所であ
る.緊張が走る。
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さて初めに、天后におかれましては、今更説明するまでもなく、本書の多くの項で、折りに触れ 漢字の神秘を説明した通りであり、この後の第8章1・「漢字」についての項で、その重要性は 重ねて説明いたしますが、この天の道理である玉璽の呼称を延載元年に改められました.聞くと |