6章「勅」・則天武后

 

この間題、即ち承禎が武后に拝謁したのは何時か、天印「賓」の印文を武后に果たして上奏した

のか、武后による「寶」制作の勅令はあったのか、この自問自答は、私にとって、長く心の底に

巣くう悩みで、問題を先き送りしてきました。

璽を「寶」に改称した時期は、『大漢和』にも『唐書』の「車服志」にも見あたりません.実際あ

れほど詳しく唐代のことを調べられた。

『監獄都市』(文献136)にも「寶」の記述は載っていませんでした。

私には「寶」の存在と驚異を示せば、それで十分ではないか、との思いがありました.そして後

世この問題に踏み込むことによって、本書の価値が、問われるやも知れないという、幸い悩みが

ありました。

しかし、もし唐代以後の一切の史書に載っていないものと仮定したら、見識ある方々は、まずもって踏

み込みを、なされない可能性が考えられます.それでは、歴史の真実は永遠の闇にあり真の光は差

し込まない、この「寶」自体、武后のあの忌まわしい時代と、決別し「開元」即ち、元を開き、政

道をただす新時代の象徴として焼かれた「寶」です.それでは、希望に燃え一心不乱「寶」を焼い

た名も無き、陶工達の心は永遠に浮かばれない.自分なれば失うものは何も無い、又間違いを犯す

事になったとしても、それは私個人の問題であり、偉大な「寶」そのものの価値は一切不動です.

ここは私の全精力を使い果たしても、最後の“気”に全エネルギーを注ぎ、700年代の唐へタイム

スリップせねばなりません。

ついに、この希代の女帝「則天武后」と相まみえる日が来たのです。

避けては通れぬ「寶」の道です。

私の執念が通じたのでしょうか「寶」改称の年が『中国の印章』(文献20−11貢)で発見したの

であります。

さて「則天武后」というこの女帝の信じがたい諸行の数々は、小説の世界や観念で理解できたと

しても、現実にはとても受け入れがたい史実であります・多くの無垢で、単純で、誠実な人間達を手

玉にとり、女の命を生贄にし、陰謀の限りを駆使し、冷酷無比、血を畷り、人間の心の隙間、時

代の間隙を縫い、ついに中華の檜舞台、歴史の主役に踊り出た希代の女です・栄耀栄華、享楽の限

りを尽くした、中国史上、最初で最後の女帝、魔性の女“妖怪”であります。

しかし、この幾千年に亘る治乱興亡の中国史を通観して、空しい一傍観者として見た時、これも

歴史の要請、時代の必然であろうか.いずれにしても名も無き民衆と、歴史に登場しない闇の支

持者がいなくては、妖怪の登場と「周」の成立はあり得ませんでした。

広大な国土・治乱興亡の歴史・名も無き民、それらが渾然一体の土壌となって、この妖

怪を生み出したのです。まさにこの名も無き民と、広大な大地こそが、彼女の最大の理解者、支持基

盤です.ともあれ歴史に対し責任を負い、直視しなければ私のこの心に巣くうわだかまりを、永遠

に消すことは出来ません・また本書の完結もありません。

それでは「寶」と承禎に関係する、武后の晩年の略年譜を迫って見ます。

628年武后生まれる

647年承禎生まれる

688年明堂建て万象神宮と号す

689年第一時則天文字制定

690年「周」樹立『大雲経』全国流布を命ず

(武后67才)

694年 延載元年5月   改元     璽を「寶」に改める.

695年 天冊万歳     改元    万象神宮消失・辞懐儀死す

696年 万歳登封     改元    嵩山、封禅を挙行

696年 万歳通天     改元    明堂再建、通天宮と命名

697年 神功      改元   第五次則天文字制定

同 年 聖暦     改元    九鼎を鋳し、通天宵の庭に置く

来俊臣棄市される。張兄弟寵愛受ける.

698年 聖暦                          公文作大字制」公布・秋仁傑、突蕨討伐.

699年 聖暦二年                    李哲神都へ召喚され皇太子に立てられる.

官僚の粛清止む。700年 久視

改元 嵩山、三陽宮に療養行幸.

革命暦廃止、狭仁傑 永眠.

701年 大足            改元

705年                          武后長病の床に就く.

705年 神龍元年                       唐復活・武后死去

『則天文字の研究』(文献17−12亘)『監獄都市』(文献136−520亘)

の年表参考・「寶」改称は『中国の印章』(文献20−11貢)


 幼少より熱心な仏教徒であったと言われる母の影響も多少あったであろうが、武周革命推進の力として武后は、

仏教を政治的にフルに活用する。

 その意味で、歴史の暗部にこの希代の妖怪の諸行の数々を黙殺し、支持補完した信徒がいたことを忘れてはな

らない。それはさて置き、あの『大雲経』を全国に広め、諸州に大雲寺を建立し、自らを弥勒菩薩の下生とした武后

が、いつ道教に変身し璽を「寶」にしたのか、上記年表を見ると694年延載元年です。

 翌695年あの怪僧・薜懐義が「万象神官」に火を放ち自らの手で灰塵と化した、この翌年696年、嵩山封禅を行い

大赦を発令「万歳都市」元年と改元し、全国に当年の租税免除を宣する。

そしてこの年、太廟の祖霊に封禅を報告し「神嶽」と改名した嵩山の天中王を「神嶽天中黄帝」

その霊妃に『天中黄后』と尊号を献呈する.(『監獄都市』526真より)同年「万歳通天」と改元し

再建成った。

明堂(万象神宮)を「通天宮」“天に通じた宮’’と高らかに宣言する。

幼少より熱心な仏教徒であったと言われる母の影響も多少あったであろうが、武周革命推進の力

として武后は、仏教を政治的にフルに活用する。

その意味で、歴史の暗部にこの希代の妖怪の諸行の数々を黙殺し、支持補完した信徒がいたこと

を忘れてはならない.それはさて置き、あの『大雲経』を全国に広め、諸州に大雲寺を建立し、

自らを弥勤菩薩の下生とした武后が、いつ道教に変身し璽を「寶」にしたのか、上記年表を見ると

694年延載元年です。

695年あの怪僧・薛懐義が「万象神宮」に火を放ち自らの手で灰塵と化した.この翌年696年、

武后が仏教から道教へ180度の転換を演じ、政治の流れを変える.まさに妖怪たるべく大変身を、

満天下の中で演じる.『監獄都市』526貢によれば、696年、嵩山封禅を行い、大赦を発令696年この

時、武后68才・承禎49才で二人の年は19才の開きです。

 

承禎の號を別名「中巌道士」と呼ぶ。

承禎はあらゆる霊山に入り、真人の道士や仙人を求め、道術を極めるべく当然、嵩山にも分け入る。

この嵩山に武后、封禅を挙行する。

封禅を行い、大赦を発し「通天万歳」と改元を行う.昇仙の願いが天に通じ聞き入れられた事を天

下に示し、祖霊に報告し、道教の主神「黄帝」を祭り五岳の中央・中天に、自らを重ね合わせた「天

中黄后」の尊号を奉じた。

695年この年、封禅挙行の前が武后、承禎の歴史的出会いであろう。

遂に歴史のお膳立て檎舞台は整えられた。

年表を見れば、武后が急速に体が衰え祈願と療養に再び嵩山に向か700年まで、実質4年程しか

ない.

承禎49才、伏龍ついに姿を現す.あらゆる道術を会得し森羅万象に精通する不動の泰山である。

道教界の期待を一身に受け、その旗頭として天后に拝謁するに、気は天に満ち承禎天命を拝する。

これ以前の年代では武后の仏教偏重、情夫薛懐儀の存在からしても、当然有り得ない.又いかに承承禎

と言えど、これ以前の年齢では希代の妖怪と、会い見えるに気は天に満ちてはいない.二人の正

式の出会いは、九鼎が完成する697年までの一年数ヶ月の間と推理する.それまでの経緯と方向か

ら見れば、武后の大変身であり、心理的、政治的に考えられない衝撃的転換である。

最早、敵無しの独裁者であっても、周帝国の天后であり、変身の政治的プロセスは踏まなければ

ならない、諸事抜かりのない妖怪であればある程、歴史の痕跡から、観えてくるものがある筈で

ある.その軌跡を辿る.天下衆知、国庫が底をつく程の莫大な巨費を投じた巨大な“バベルの塔”

を情夫、薛懐儀が放火したのです.薛懐儀の処遇と自らの心の整理は“瞬時’’に決した、しか

しその始末、世情の沈静と掌握の為にも、流れを一挙に変える政策が必要である.宮廷内は力で

封じ込んだとしても、騒然とした世情、その民衆達が領き納得し得る人物.政策転換を政治的に

理由づけし、かつ整合性を与え、天后の尊厳を保ちうる人物、それには天下に名を馳せ、森羅万

象に精通し天下万民に尊敬される人物の登場が必要である.武后自身の嗜好でもあったが、これ

までの薛懐儀に代表される豪壮、絢爛なる仏教色と対称的人物、世情の沈静と、人心一新、これ

をなしうる象徴的人物の登場が不可欠である.放火の犯人が僧侶の頭目であるから仏教側の代表

では到底収拾は無理である.儒者はこれまで天道を踏みにじる女帝に、骨抜にきされた御用儒者で

あり論外である.この異常事態乗り切りには、重大な政治決断をせねばならない.武后、承禎の出会

いは、「万象神宮」消失から、嵩山封禅の前後の、ごく限られた時期であろう.

さて万象神宮は情夫、醇懐義と龍床で蜜談した、周帝国の象徴、武后の総仕上げといえる大伽藍

である。その統べては、武后が女の命の代償を払い造り上げた「周帝国」そのものである.

武后の戦略、仏教を背景に強力に推進してきた「大周革命」その“政治的総仕上げ”最大のシンボル

である.かっての帝王たちが、幾度も計画に上げながら、果たしえなかった、天を祭る祭壇である.

世界の中心洛陽、この帝都のだれ一人視界に入らぬ者がいないはど巨大な塔である.『則天武后』(文

139−113真)によれば高さ89m万90mであったと伝える.まさに有史以来最大の巨大なバベルの塔

が、神都宮城の正面に出現したのである。

『監獄都市』(文献136−565亘)「都を去ること百余里の外にして、遥かにこれを望見る」(同文献

136−575貢)『旧居書』「長孫無忌伝」とある.。

この万象神宮が紅蓮の炎に包まれ、巨大な火柱となって天を焦がし、夜空を染め上げながら、猛火の中に

崩れ落ちる様は、さながら周帝国が瞬くまに、崩れ去るが如きに映ったであろう.しかも、特等席で、

私は皇城から直線でどれぐらいの距離に建てられてあったのかは、詳細な資料は持ち合わせてはいな

い.しかし妖怪の破裂せんばかりの心臓の鼓動が聞こえる.政治的足元は、今にも奈落の底へ崩れそ

うである。さながら武后自身と周帝国を同時に焼き尽くすほどに、狂喜する民衆の歓喜と、どよ

めきが妖怪にハツキリと読観とれる.妖怪には、瞬時に事の重大さを察すると共に、薛懐儀との訣別の

心は、未練などの問題の入る余地は一切無い、対応は即座に決まった.妖怪には宮廷はもとより、民衆

の動揺と不安は、生易しいものでは無いことは、即座に判断できる、天を恐れぬ諸行に対する天罰

である.今にも天地崩れ、大飢饉と大地震日は隠れ、天下大乱の始まりを予感し、民衆は恐れおの

のいている…‥“現代では無い”まさに“龍”や“雷神”が絶対かつ100%信じられて

いた時代である.妖怪には、民衆の阿鼻叫喚の惨状と絶対絶命に立たされた自の政治的立場は瞬時に

理解した.妖怪の政治的計算と対応、そして行動の素早さ、適確さは、ほとんど動物的であり背後から妖気が漂

う.この妖怪武后の心の深刻さと、時代生きた人間達の天神・龍神・雷神などに対する、絶対的恐れ

信仰が観えずして真の歴史は観えない.それは正に“虚’’の歴史である.いずれにしても今日まで

彼女が戦ったのは、自らの生存を脅かす、皇帝の女達であり、唐朝の血脈であり叉、政敵者、旧態の

官僚群である.彼女の手足となった、初期の秘密網は名もなき女官、宦官、仏教勢力であろう.武后

も再婚した母の三姉妹の真ん中、彼女もまた、父親が功臣の列に連なっているとはいえ、八歳で父を喪

なう寒微の家しき.妖怪の政治的計算と対応、そして行動の素早さ、適確さは、ほとんど動物的であり背後から

妖気が漂う.この妖怪武后の心の深刻さと、時代生きた人間達の天神・龍神・雷神などに対する、絶対

的恐れと信仰が観えずして真の歴史は観えない.それは正に“虚’’の歴史である.いずれにしても

今日まで彼女が戦ったのは、自らの生存を脅かす、皇帝の女達であり、唐朝の血脈であり叉、政敵者、

旧態の官僚群である.彼女の手足となった、初期の秘密網は名もなき女官、昏官、仏教勢力であろう.

武后も再婚した母の三姉妹の真ん中、彼女もまた、父親が功臣の列に連なっているとはいえ、八歳で父

を喪なう寒微の家の出である。複雑な家庭で幼い女は否応なく女を知らされ、幼ない心の内面に複雑

な影を落とし”蛹”は“蝶”となり「妖怪」となった。

その妖怪の、唯一の理解者、支持者は先に述べた名も無き民である。

その庶民に当然、この伽藍の観覧を許し共に大周帝国の建国を、盛大に祝った筈である。

その民衆が、歓呼と共に悲鳴を上げている・・・・.この妖怪武后の動転と衝撃の深刻さ、その度合

が観えずして、この爻の史観は観え無いであろう.多くの歴史家は薛懐儀の放火は情を移した武后へ

の嫉妬と簡単に片付ける。

勿論、気高い学問の世界は、下世話な男女の世界に立ち入る必要性は無いであろう.しかしこの

怪僧の心の自負心、文字どおり裸一貫伸し上がった男の複雑な心の交錯、胸の内が観えなくては、

共に机上の考察となる.中国版ラスプーチン薛懐儀、彼も時代の歴史を彩った男である.彼の名

誉の為にも、一言付け加えておきたい.男女の単純な嫉妬だけで放火したのではないことを・・・・。

ともあれ、民衆の安穏と太平こそが武后の拠り所であり支えである.民の心が離れては妖怪の明

日はない.これぞ妖怪を支えた唯一の帝王哲学である.振り返れば人一倍、女の欲望と生への執

着の強い武后が、有無をいわさず世俗から切り離され尼に落される、まさに“一度は死んだ武后であ

る”。

そして武后にとって、この地獄から這い上がり、女の死闘にわが子を自らの手で生贄にし、宿敵た

ちを次々に陥れ、過烈に殺戮の限りを尽くした諸行の上に築きあげた、周帝国の太平である.この武

后がわが子を殺し、罪を皇后に着せた史実に後世その真偽に論争があるとのことであるが、このこ

とも、この爻をご理解頂く為にも、武后の歯牙にかかり犠牲になった多くの人の為にも、そ

して妖怪となり朝政を仕切り、より苛烈に粛正を行った武后の心の悲しみを汲み取る為にも、間違

いなく“生け贄”にしたことを確認しておきます.この事実に異論を唱える方は、間違いなく妖怪の

餌食となり、再び生きては戻れぬ、あの有名な地獄の門をくぐることになるであろう.以上、わが

子の生贄をスタートに数え切れぬ殺教を直接間接に指揮命令し、七十を越え張兄弟を寵愛する絶倫

の妖怪である.いずれにしても、この妖怪に仕え鉄の意志、不屈の精神を持ち絶対絶命の死地から二

度も奇跡の生還を果たし、妖怪にも遂に気取られる事なく、周帝国の幕引クーデターの首謀者達(東之、

眺崇、敬曙、他)を推挙配備し、天寿を全うした。

秋仁傑が武后に忠節を尽くした唯一の心の拠り所、自らの心の支えも、天下万民の為、この一点である.

宮廷外の民心を観る能力、これぞ妖怪武后の自負である.万民の喚声と歓喜は、まさに衝撃であ

り、その紅蓮の炎に、瞬間、周帝国崩壊その幻影を観たのである.酷史、来俊臣の棄市、彼に対

する民衆の激しい憎悪を知り粛正を急がせ、終息に向かわせたのも、民衆の密告熱と興味が最早、

終焉を迎えつつあることを、この時‘‘鳥肌”で感じたからである。

文官選考に科挙制度をさらに充実し、使える者、異能の者、有能な人材は身分を問わず抜擢、自

らもその選にあたった武后である。

何時の時代も大衆は流行に熱しやすく、そして覚めやすい。

まさに烏合の衆、権力に弱く利に聡い、そして、いったん弱みを見せると妖怪でも手がつけられ

ぬ.この衆愚の本質を習熟し、仏教熱を煽り、密告の法を奨励し、事ある度に煽動してきたので

ある.中華帝国の歴史に足跡を残すであろう偉大な周帝国、この宮廷内は最早完全に制圧しても、

時として妖怪よりも残虐で、得体の知れぬ、愚かな民衆と、その世論の“表裏’’の怖さは、誰よ

りも妖怪自身が知っている。

この一大政治転換に狭仁傑が、その人材を武后に問われた時、承禎を推挙した記録は私の手元に無いが、

クーデター後、幽閉された武后の目に、秋仁傑と承禎、二人の顔が鮮明に映ったであろう・・・・.こ

の自尊心の異常に強い妖怪にとって、二人の心の底を読み切れ無かったこと、そして天地に唯一信じ

た秋仁傑が裏切っていたこと、この二点は天が武后に与えた“万死に値する極刑であった”。

彼女に残ったものは空しい「虚」の歴史だけである.「朝道、空し矣」と妖怪が泣く、その全幅の

信頼をおいた彼が、まさにあの世からクーデターを指揮したのであるが、この絶対の窮地に立った自

らの政治的対応、政治転換、それに相応しき人材の登用を当然この鉄人宰相に必ずや相談した筈であ

る。

武后の魔性が潜む、心の深淵は彼女が直接間接に関与した則天文字よりも「昇仙太子碑」の怪奇な筆体

に観ることができる。(本書の掲載を拒絶する)。



もし妖怪の書体をみて、清新な感動をもって賞賛される人は、天印「白獅子」の偉大で、崇高な

勇姿は永遠に御理解いただけないであろう.ともあれ、璽を「寶」にし、それまで仏教を政治的

に利用し、自らを弥勤の下生としてきた武后が妖怪よろしく、道教に変身したのである.武后の闘

争本能、生き様は積極果敢、我が身の保身安泰に対して、一瞬のためらいも手段も選ばぬ、そして事

の本質を見る目と人を喚ぎ分ける能力、危機予知能力は尋常ではない.この希代の妖怪・武后と今

や、仏教信者の巣窟とも言える伏魔殿での一大説法である.この妖怪に賞賛され、無事帰山した承禎

の出現は、隠れ唐朝派の人達を勇気づけ、宮廷内外に承禎の偉大さを鮮烈に印象づけたであろう。

当然、700年嵩山に造営なった、三陽宮は、天印の文字、三桁体の意味である。

ここで気づかれた方もあろう、制定した則天文字「図@」を見れば「日」「月」「君」の文字が天印の文

字と違う▲これは何を物語るか、当然承禎は天印「寶」奇跡の印文を妖怪に教え無かった証拠である。

今一つ、もし武后が、この「寶」の印文を承禎から告げられていたら、迷うことなく、勅令を布

告せねばならない事がある。

妖怪には印文の神知を理解できるセンスはある。

「寶」の文字を入れた瑞祥改元である.あれだけ頻繁に改元した武后である.視朝以来20年ばかり

の治世に18回もの改元を行った“改元偏執魔”である.‘‘間違いは無い”私の五年に亘る、

暗雲と胸のつかえは、遂に払拭された。

希代の妖怪を遥かに凌駕し、彼女の人生の軌跡と、心の暗部一切を薄紙を透し観るように透視し、承禎は拝

謁したのである.クーデターの磐石の布石を打ち静かに去った狭仁傑と共に、大胆不敵この妖怪を真っ向

から諭し、欺いたのである。

それでは承禎の説法は何を話したのであろうか。

妖怪を得心させ、天下の王道を正した、その承禎の説法の一端をまず武后、嵩山封禅の儀に観る。

嵩山(河南省、登封県)は五巌の中央に位置する霊山である。

つまり、天印の印文の道理を理解戴ければ、お分かり戴ける筈である。

嵩山は聖なる五山の中央・天印・中央・五文字の中心・老の文字にあたる天の中央・中天に聳え

る聖山である.昇仙の道が開かれている天に最も近い所であり、最も重要な宇宙の中心である.

印文中央は「玄」なる所、「玄牝の門」にあたる所である.天と地、陰陽が重なる、母なる大地の中心で、

女性であり天后である、その天后に最も相応しき、陰陽一体の極地、聖なる山である.陰陽は元

「一」であって、天后は天の意思により定められた、大周の天后・天子と陰陽「一」なる中華のです

その天と地・陰陽「一」つに交わる嵩山は「黄帝」を祭る中央・中天です。

先に記した、武后が「黄帝」と「黄后」を同格に祭ったのは、自らを重ねた事である.まさに天

后、道教の祖・黄帝と陰陽一体となったのであります。

「寶」改称は礼法が伝わる太古より、天子の基である、最も重要な問題、一連の則天文字の改革など

比較にならない、歴史的大問題である筈にも拘らず、今日この、命題に関した研究書はみあたり

ません。

大唐の神器たるべく、天子の最も神聖かつ重要な歴史的問題です。

天后は“古を越えた”聖帝と、自らの等位を「越古金輪聖神皇帝」とした。

いかに天井知らずに積み上げても、漢字を創造するだけの武后である、その意義の持つ重大さは、

誰よりも理解していると自負する天后である。

天道に照らし百官に計り論議を尽くさねばならぬ聖域である.手元資料不足であるが、この一大

変革に関し後世、考証された跡は今の所みあたらない。

この大問題に関し本書「寶」の出現により今後専門家の手により論議されるであろうが、この項

(爻)と承禎の為にも、さらに史観を展開せねばならない。

これまで、唐朝を破滅させ天道を踏み躍り“牝鶏司晨”と影で誇られ来たことは武后も知る所であ

る.緊張が走る。

さて初めに、天后におかれましては、今更説明するまでもなく、本書の多くの項で、折りに触れ

漢字の神秘を説明した通りであり、この後の第8章1・「漢字」についての項で、その重要性は

重ねて説明いたしますが、この天の道理である玉璽の呼称を延載元年に改められました.聞くと

ころによれば、その主な動機は璽から発する言葉の響きと、仏教の三寶・彿・法・僧の意味から改

称なされたと聞き及びます。

おそれながら古来から天の道理を象す「寶龜」は王が卜に用いる亀甲のことです.また古の宝「寶圭」

は上囲下方の宇宙を道具に具現化したものです.「寶光」は道教の上境・三清・天上の九色の光です.

このように「寶」には元々、王者の印しに加え、神と道の意味がありました.これは全て太極の道か

ら発生したものであります。

「寶位」は「天子之位也」・「寶座」は「天尊之坐位」(文献67)です.よって「寶」は元々、神・道・

宝・でありました.「寶」は天を指す「陽」にあたる大唐の伝統、基で有ります.叉天后は地に

当たる「陰」・大周の基です.天地一体、天意に叶う「周」新時代に相応しき「寶」であります.

天の元・陰陽は表裏「一」つのものであり、分けては陽ならず、また陰ならずであり、こと

さら過度に意識なさることこそ、万物自然の理、「大極」至らずであります.陰陽の元は

「一」の元・「太極」です.天后が天子であることに、なんの不自然がありましょうや.大周

国も天意に叶い“万々歳”で有ります.周建国への天后の今日までの歩み全ては天の意思であ

ります.大唐も大周も一つから別れ呼称を変えたに過ぎません。

陰陽は「一」を表裏した「一」であって、ともに分けても「一」ならずで有ります.もはや天后

は天子であり、道家、僧侶と分け隔たりする次元の御方ではありません.今日までの、仏教偏向

は「大周国」を建国する為の政争の具であって、「天子」「天后」の道程に過ぎません。

釈迦が説く般若経の「空」の真理も道教の「無」を指し、大宇宙の道理「大道」の「一道」です。

天后が天子と陰陽「一」であれば、もはや弥勒や菩薩を遥かに越えた、天の「玄」「一」であり、

世上の世界に止まることは天道に叶いません.それを万象神宮の炎上が“示”して“降”ります。

史上初めて「陰」が「陽」と「一」となり「玄」なる中天で照らし、天子であられる天后の大周国を

祝っております.瑞兆の改元なされた「延戴」の「延」には、いずれ歩む「延道」の意味があります、

「載」は天より「承也」であります.即ち昇仙への道であります.『大漢和』に「寳の冠」がありま

す.「女帝」であり天子であられる天后が戴く「冠」であります.天地は不動、無為自然の大道で

あります.鼎は易の象で“改めるの意”です.再建の通天宮に九鼎を奉納し、次代を開く天下太平

の呪文を印し、道理を正し、それを嵩山に奉じた後、宗廟に奉ずれば‥周の天下は万々歳で有ります.

遂に、承禎の進講は終わった.宮廷は勿論、万民あげて“万々歳”である.696年、「万歳登封」「万歳通

天」に改元する。

あくなき闘争の日々は寸刻も自らをかえり観る余裕がなかったのである.“妖怪悟る”。

国号を「周」と変え全てを力で制圧してきても、天地と一体になれないことを・・そして自らの

心の奥底は、果てしない空洞であったことを・・.弱い女が死力の限りを尽くし、這いずり上が

り、妖怪と成長し全てを成し遂げた天后にしか分からぬ、果てしない孤独であります.「万象神

宮」の消失は天の警鐘であった.承禎の漢宇宙の説法はまさに、妖怪の小宇宙を遥かに凌ぐ大漢宇

宙であった。

「寶」は・神・道・たからで、再度生まれ変わる「周」帝国に相応しき「寶」である‘‘改めの

意”九鼎「寶」製作の勅は発せられた.大唐の祖霊、天道にも叶い、万民全てが、初めて心の底から

天后を認め「一」になったことを、この「寶」の道理で実感したのである.心の変化は明ら

かである.尊号「慈氏越古金輪聖神皇帝」の加上した分「慈氏越古」「慈氏」とは弥勤菩薩・「越

古」とは古を越えた意味であるが、これを、あっさり取り去ったのである。(『監獄都市』(文

136−558.559貢)より)そして大赦を発し「天冊万歳」と改元する。

承禎の進言する嵩山封禅の重要性は改めて認識した、秘められた罪業の数々は嵩山で清められる、承禎

はそれを暗に教えてくれている‥・薄氷の中にも無為自然体、承禎は、ついに歴史の大任を果たしたの

ある.内に秘めた「寶」の印文、その大漢宇宙を持ち出すまでもない。

則天文字を作らせた武后である.人並み以上には漢大宇宙を理解する能力はある.天の道理は果て

しなく天地縦横無尽とどまる事はない、妖怪ごときには、道のさわり、基本的概要だけで十分であ

る、妖怪に「寶」制作の勅令を発動されては天意に叶わぬ。天意に背けば、神器「寶」は永遠に焼成不

可能となる.古来「寶器」とは九鼎を指す、黄帝が初めて造らせたと言う、伝説の鼎、胸に秘めた天

印「九文字」を卦えた「九鼎」を再建取り急ぐ明堂に奉納すべく武后に進言した.そして承禎が占

なった、天印「寶」勅令の皇帝、後の「玄宗」の名は、この九鼎に鋳すべき秘文は、再建急ぐ明堂鎮護

に武后自身の手で記すことを進言し著作即にしたため渡した。

そして勅を拝し、偉大な承禎の呪文で再建急ぐ明堂の場所は清められた.天后であり、19の年の

開きと、希代の妖怪を幻惑し翻弄した承禎.それは、胸に秘めた「寶」驚異の印文を知る、その満々

たる自信、心意気である.承禎、歴史の大任果たす。




さてここで、さらに鉄人宰相、秋仁傑と
承禎二人だけが今だ歴史の“玄”に封じている、二人

の暗黙の密約”いや、正確には謀ったと言ったほうが間違い無いであろう秘話をさらに踏み込ん

でお伝えしたい。

写真1は1982年中国河南省登封県、中岳嵩山で発見された、聖暦三年・久視元年700年)・武后の

封禅の祈祷文を刻んだ金簡で、怪人胡超の手により納められた秘文であると言う。

胡超は自ら数百歳と称し妖怪よりせしめた巨万の財貨を費し三年の歳月をかけ嵩山三陽宮に逗留の

武后に長生薬を献じたという怪しき煉丹師である.この陰陽両刃の薬毒その効能と精神的作用により一時

的治癒。

天下に大赦を令し、久視と改元する.(著書『則天文字の研究』文献17−173頁より)。

因みに久視とは『大漢和』長生、不老の意である.自称、数百歳嵩山の仙人、胡超は当然承禎より二・

三十は年上であったろう.幾つもの名山に遊び、道士として名高き仙人を尋ね歩き、中巌道士の異名を

持つ承禎である.怪人「胡超仙人」との接点は、十二分過ぎる程である.この数百歳と名乗る仙人、怪人

胡超の目には、若いとは言え、承禎から発する底知れぬ気が観えるのである.最早、森羅万象に通ず

る承禎である.承禎の方術に胡超の煉丹の術はない。

既に承禎には、その効能と副作用は、既に‘‘辟穀の術”に辿りつく境地までめ過程で習練・熟知して

いる.改めて武后に名をあげて、胡超を紹介する必要はない、嵩山を住家とする胡超である.嵩山封

禅の進講だけで、妖怪と胡超の出会う遺すじは出来た.怪しき長生薬を作る怪人胡超を天后に引き

会わされぬ様と…・ことさらゆっくりと言葉を区切って狭仁傑に話す承禎…・二人の目には一

瞬底光りする閃光が走ったであろう、それ以上の言葉は要らない・・・・。

二度も死地から生還した宰相である.深謀遠慮、剛直かつ清廉潔白の狭仁傑、今や古今の名宰相

に数えられる、この宰相だけには「寶」奇跡の印文を告げることに承禎一点の迷いも無い…・

二人の千里眼、承禎の占易、そしてこの「寶」の神知に、承禎を推挙した秋仁傑は改めて自らの

人選が正しかったことを確認したであろう。

偉大な狭仁傑である、天后が張兄弟享楽に耽る心の内も、そしてその行き着く時代の終末と自らの

死期の近い事もそれなりにら観通していた・・・・。

それらの、動かす事の出来ぬ、運命を、承禎の占いがはっきりと示した.

“次代を開く周到な布石は打っておかねばならぬ”。

約二十歳若いこの神秘的とも映る承禎を見る狭仁傑の目は信頼と慈愛に満ちていたであろう

…・(注一秋仁傑の心の奥底に既にクーデターの気持ちが秘められていたであろうと推理し彼

の人物像に深く迫っておられる著書『世界の人物像』則天武后篇(文献148−376〜377貢)を是

非ご一読願いたい)。

さて道家、道士にとって、太宗以来の正統の国宗であった、その道教を踏み躙り、薜懐儀の道士に対

する、あるまじき狼籍を許し、道士を手厚く遇した唐朝派を根絶した妖怪は怪人胡超にとって天人許

すまじである.噂に道教に変り過去の除罪を願う武后と聞くが、胡超に三とつて何時化けるかもしれぬ

妖怪である.今だ衰えを知らない性と、70才届く年になって、親知らずが生え、祝って、長寿元年と

改元する(文136−525貢より)驚異的、妖怪の長生薬、表裏、両刃の秘薬は細心、巧妙、かつ念を極

めたであろう.妖怪のまさに妖怪たる欲求、業の深さ、過ぎたるは明らかである.伝えによれば、服

薬を始めたてから約三年、妖怪にも利き目が急速に現れたと言う.妖怪の気配は尋常では無い.念の

ために、狄仁傑は武后に嵩山行きを一度押し止めている。

(『則天文字の研究』文献17−185貢)それだけで十分である.尚、胡超も、ひとかどの方術を

極めた怪人である、写真1は、1982年中国河南省登封県の中岳嵩山で発見され『則天文字の研究』

(文献17)に胡超の、嵩山封禅の折請上表文とある.著書も地方新聞「河南日報」に簡単に報じられ

もので詳細と資料不十分とある.写真から観ると表文とはいえ、このありきたりの祈祷文に妖怪武后の

昇仙と除罪を真に祈願したものとは、私の“気”からは到底観えないのである。まさに承禎が封禅の

行く手に配しただけの怪人、除福の再来、妖怪を翻
弄した術は見事であった・・・・

さて「万象神宮」から見れば、ひとまわり、スケール・ダウンしたが、再建なった明堂「通天宮」

に巨大な九鼎が中央の庭に奉納されたと言う。

この九鼎の印された秘文について更に今一歩踏み込む.薜懐儀に命じ消失した万象神宮再建に取りかかっ

たが、辞懐儀は完成まで再建の指揮を取っていない、確実な事は、九鼎製作に着手した時、最早あの薜

懐儀は葬られ製作事業に携わってはいない。

(『放蕩都市』(文献137−146貢)より)開元十年(722年)この天下、九州を現した、九の鼎の中心、

神都にあたる、中央、高さ約5.5mの最大の鼎に天后自製の銘文に“上玄降方建隆基”の文言

が発見されたと言う.これは「上玄」即ち原始天尊が、この鑒(かがみ)に降臨し“隆基”(玄

宗の若き時の名前)′を建る”と解釈できる。

即ち玄宗が天子となることが予言され印されてあったのである。

無論これは天印・九文字・中央「玄」の位置、中央・最大の鼎に、承禎が武后に上奏し著作朗に授けた

占いの銘文が印されてあったことは言うまでもない。狭仁傑が推挙した名宰相姚崇を筆頭に馳せ参じ

中挙げて玄宗に祝賀を言上する。

同書(文献137−637頁・注50)・『通鑑』唐紀二十七.尚『通鑑』の作者司馬光はこの銘文の解

釈は誤っていたと指摘しているという。

しかし著者大室氏はこの指摘に疑問符をつけておられる.“まさに興味ある疑問符である”。

開元十年すでに、玄宗は璽を「寶」に復し、道主皇帝となっている。

承禎から既に、玄宗が皇帝になることを十数年前、承禎が予言し、印しておいた事を告げられてい

た筈である。

以上この項は、平成承禎の名において、踏み込んだ爻です・・・・

大方のお叱りを背に、天印「寶」焼成の“勅令”は則天武后が下していないことだけは確認して

おきます.それとも将来計画があると聞く「乾陵」発掘により、承被が上奏した武后専用の別の「宝」

“寶冠”が発見されるか?待ち遠しく興味の尽きないロマンであります。

最後に近年、則天武后に対する評価が見直され、政治家としての功罪、また初代文化大革命者と

して、のちの文化に果たした影響と功績など、色々問い直されていといいます.秋仁傑および、

後に玄宗に仕えた宦官・高力士も武后の取り立てであり、卓越した人物眼からの人材の登用と粛

正は“民活”と“行革”の古典の見本であり、当時の民衆と歴史の傍観者にとっては活力ある時

代と華々しい文化の創造者です.この爻、武后の評価に対する個人的感情が入り、不穏当な言葉

の表現とあいなりましたこと、偉大な女帝・則天武后の名誉の為、終りにあたり謹んでお詫び申し

上げます。

現代と雲泥の差、女の身であり、妥協の余地、選択肢の無い権力中枢の生き残りをかけた死闘、為政者

の非情と孤独、頼り無い亭主を持った女の奮闘、そして新しい国造りに障害となる旧態の官僚一掃、国力

の充実と次代の文化を開いた視点からは、当時の儒者や民衆となんら変わらぬ現代ジャーナリスト

は無論、我らごときに言葉を差し挟む余地は無い.彼女もまた次代を開く歴史の生け贅であろう・・

しかしそれでも武后の粛正その方法と数は、凡夫筆者にはあくまで“白日夢’’です。・・以上歴

史部門、最大のブラックホールは、なんとか先人の導きで乗り切ることが出来ました.深く敬意を表

するものです。