6章「月」・歴史に観る

 

690年、「則天文字」の制定は,武周革命の地ならしの方策の一つであろうが、そればかりではな

く文字そのものに、不可思議で深い魅惑を感じていたのも事実であったろう。

年表には現れませんが、705年以前、仏先道後と明確化した「則天武后」が「寶」創造者と私が

予言した「司馬承禎」と接見し、定かではないが「璽」を「寶」と改めているのです。

一説には、「璽」の発音が死の発音と似ていたからともいわれている。

この後、皇帝となった「睿宗」が、元の「璽」に戻すのです。

   

718年「玄宗皇帝」は再び「璽」を「寶」と定めるのです。

719年は神器「寶」制作の本格的始動の年であり、「開元」たらしめる「勅」を公布しています。

721年、「寶」焼き上げの期待を胸に、玄宗皇帝は茅山派12代宗師、司馬承禎より「法ろく」を受け、文

字道理「道主皇帝」となり、「道教」は「皇宗」となります。閲元724年、玄宗は「泰山封禅の儀」を挙

行する。

『隋唐帝国五代史』(文献8−78貢)によれば、秦の「始皇帝」以来、歴代有力君主が執り行なう帝王の祭

礼ですが、玄宗皇帝の儀礼には“特殊”な意味が付されてあったと言われます。

それは「玉牒」という長方形の「玉器」を天に捧げる儀式が付されたというのです。

そして、注目すべき事は、この玉器の上に皇帝が天の神に祈る「文句」が印され、それは石函の中

に蔵して一切公開しない“秘密の文句”であったとされています。

人間、玄宗の歓心の現れであ 、喜びのあまりに”この秘密の文句を“万民の福”を願う為、公開

べきと「集賢殿学士」を選びて、儀式等の調査にあたらせている。

『大漢和』によれば、「玉牒」とは“天を祀る祭文”とあります。

これこそ天才、司馬承禎が上奏し、天印「寶」に印された印文ですが、しかし、残念ながら公表は

され無かったのです。

この時、もし公開されておれば、「寶」1300年の旅路は全く違った道を辿ったでしょう。

また私事ながら私の人生も恐らくもっと違ったものに、なっていたであろう。

もちろん、玄宗は神器「寶」の成就を祈願したことは、言うまでもありません。この封禅の儀

の玉牒のことは、恐らく後世に大きな謎として伝えられたのであろう、『旧唐書』(文献13−883

頁前後)には、かなりの紙面が割いてあります。いずれにしても五色の旌旗が翩翻とはためき、

つき従う兵は、泰山四方の視界を埋め尽くしたことでしょう。

この、「寶」の印文を天に報告する、この「封禅の儀式」と、「寶」完成による「玄元皇帝廟」奉納式

典は大唐の絵巻、歴史の一大スペクタクルであります。

742年、玄宗は長安で政務を執っているのに、洛陽を格上げし、長安を同格の京とします。長

安「西京」と洛陽「東京」の誕生です。

そして、唐祖であり道教の開祖「老子」に、「玄元皇帝」の皇号を呈します。そしてさらに東西

両京に「玄元皇帝廟」を創建する。

『大漢和』に、京は「みやこ」「天子の居るところ」とあります。

太極「寶」に秘めた「玄」「龍」「一」「五」「九」は即ち「皇帝」であり、玄宗と同格、一心同体の「寶」

が「東京」洛陽に安置した事の証左です。

その2年前、大唐の天下は、戸数約8百40万・人口約4千800万、米価は安定し、旅するに食

料に不自由なく護身武器も携帯しなくてもよいほどであったという。

心血を注いだ開元の治世の完遂である。

この年、神器「寶」は焼成なり、同時に第1章15に印した篆刻師に「寶」は委ねられた。

この年玄宗は、政務を全て側近に任せる事を宣言している。

“「寶」焼き上げなる”

正に、712年の太極(先天)の年号から「璽」を「寶」に復する準備期間6年、そして「寶」制作

の秘密の「勅令」を発した718年から、実に足掛け24年、計30年の歳月をかけ、遂に神器「寶」が

完成したのです。この742年、大唐の黄金文化の絶頂を極める神器・太極「寶」完成を祝し、“瑞

祥改元”を勅令します。世に名高い“天寶”の幕開けです。

玄宗は「寶」安置の「玄元皇帝廟」の呼称を「宮」と格上げし、「玄元皇帝宮」と同年中に改

称します。しかしその完成を待たずに承禎は、静かに世を去りました。

「寶」安置の神宮の名称は、道主皇帝が自らが決めねばなりません、はたから見ても、はしゃぎ過ぎ

とも思える程ですが、余程嬉しかったのであろう、翌年さらにこの改称したばかりの「玄元皇帝宮」

を『太微官』と再び改称しています。

「太微」は第3章2で既に説明したように,“獅子座”のことを指すのです。正に神器「寶」の「白

澤」が星座する神殿の呼称です。又、この章6に設ける「司馬承禎」の項でも触れますが、承禎の字

は「子微」です。

「子微」は「太微の子」です。玄宗の今は亡き“天子の師”承禎に対する尊敬の念が正に観えるのです。

まさにこれが後世“天子諌言の獅子”となり、『大漢和』「獅」の文字が「師」に通ずるという、記

述の因となるのです。

後世のこの「師」の由来は大唐の大宗師、司馬承禎です。さらに、玄宗の喜びの声が聞こえてきま

す。744年、巻末年表を御覧ください。

年号の欄で「天寶三年」のところを、「天寶三載」となっております。

即ち、中国史上まれな「年」の呼称を「載」と改め、“天の寶”を”戴く”とするのです。

「楊貴妃」と「寶」を手にした玄宗の心中は、押して計るべきです。この頃『開元天宝遺事』に、陶工技術

は大変な技術水準であったとの記述があります。巻末年表を再度、御覧ください。この時代を代表する

「唐三彩」
「失透白瓷」「透明軸白瓷」「邪州自瓷」の技術最盛期が、この頃に集中するのです。これらの

技術集団が競っ
た窯場、即ち「勅令」による

「官窯」は、第4章6「寶の官窯」の項で述べた道教の天理、法理に適う聖地であろう。いずれ歴

史が私の問いに答えてくれる筈です。

さらに史書と年表を照らし合わせます。

承禎はこの時代、「武后」「睿宗」「玄宗」の三者三様の皇帝に謁見し、それぞれの皇帝から賞賛され

下賜品を拝領しています。

これは、歴史上、希な事であります。なぜなら女帝「武后」は「周」を建国し唐室が信奉する道教を

ないがしろにし、その最大支持基盤の殆どの者達を粛正して来たのです。

その、武后の支持基盤は、承禎の道教と敵対する仏教です。この武后が、承禎を賞賛したというの

です。

『旧唐書』(文献13)に承禎の師「播師正」が“陶隠正一の法”を伝授するとあります。「陶」は

まさに“焼き物”で「隠」は当然「天隠」に通づるです。

叉、承禎は“篆隷ヲ善クス”とあります。『大漢和』に「篆」は「印章」です。正に「印」

と「陶隠」の道理二つが、一つに合流するのです。

難行苦行の果てに、「寶」の奇跡の印文は、ついに司馬承禎により発明されたのです。

「則天文字」は武后の個人的意向が強く反映されたものですが、そのブレーンは宗秦客等の手によ

るといわれています。

武后死去後、殆どの則天文字は開元の勅令、その偉大な精神の前に、その神通力を失う。漢字は第1章19

で述べた易の卦爻の組み立てです。

またこの後第8章でも述べますが、漢字は神の化身であり、宮廷官僚の宗秦客レベルでは文字の生命

力は知れたもの、大宗師承禎とは比較以前である。「璽」を「寶」に改称したのは、承禎の進講が決

定的役割を果たしたのです。

次の皇帝睿宗が「寶」を「璽」に復したのは十分考えられことでありす。それは武后時代からの制

度の一新なのです。

武后が下した「寶」が、もとに復されてしまいましたが、睿宗に拝謁した承禎はこの事を、敢え

て言及しなかったと考えられます。なぜなら、後の項でも触れますが、彼の易卦には、既に睿宗

が短期政権であり、その運命の尽きることを分かっていたからです。(注・承禎の占いについ

て、この章「老」・「巨星・司馬承禎を仰ぐ」で証拠を提示します。)

その後、間もない716年、「睿宗」は承禎の観たとおり逝く。

『隋唐帝国五代史』(文献8−103頁)によれば「天寶」の年号は、「玄元皇帝」即ち「老子」から

賜うた「霊符」によって起こったとあります。

これは、既に泰山において神に報告し石函に封じた、承禎のこの印文です。秘密の神器であり、

玄宗自ら、この神話作りに積極的に加わり“喧伝’’したであろう。


叉、「寶」の起因を『大漢和』に求めると、上教の「洞眞天寶」に基づくとありますが、この

説は後世の解釈に基づくもので、何等かの引用でありますが”現実の「寶」の前に、その出所は

魅力を失います。しかし、これも後の第8章6で述べますが玄宗周辺の策謀、喧伝また天隠

陽動作戦と考えても、なんら不思議ではありません。さて、後世「開元」の名君が何故暗君となったのか、

の原因を後世の史家は楊貴妃に着せ、傾城傾国の女と呼びます。その事実もけっして否定するもので

はありませんが、歴史の真の原因はもっと深い玄宗の心の中にあったのではないでしょうか。現

代日本の様な豊かな民主主義の時代ではありません。彼の気高い理想主義、道主皇帝、有徳の帝

たらんと念じたゆえなのです。

現実的に、その理想社会を実践及び具体化するには、時代が早すぎたという外はありません。理想

と現実、そして周囲の人間との落差が余りに大きかったと考えるしかありません。

それはさて置き、武后以来続いた“女禍の時代’’に、若い身空で女性としての自らの分をわき

まえつつ、玄宗によく尽くした大唐の大輪の華に、最大限の賛辞を呈したく、利発で聡明であ

った彼女の人柄に同情が禁じえません。

『新唐書』「歌舞を善くし、ふかく音律をさとり、且つ智算警頴、意を迎えてすなわち悟る」と評す。

これ以上は、本書の主目的から逸脱する事と、紙面の関係上先に進まざるを得ません。

年表を下って755年、「安史の乱」により「寶」安置の洛陽は、戦火に見舞われます。

殺戮と略奪、この動乱の中で、杜甫が歌で天下に叫ぶ‥・神器が、遂に奪われたのです。

『唐南京城坊致』(文献6)に賊軍が神器「寶」を奪った決定的な記述が載っています。

そして「寶」を手中にした事実を天下に通達しました。

このことは、恐らく私の発見の中でも、とてもインパクトのある重要な発見の一つであり

ますので、次の項「界」で詳しく述べる事とし先へ急ぎます。

古来、宗廟の宝器を奪うは勝者の印し、中華の覇者を意味するものでした。ついに「寶」は奪われ、

「安禄山」「史思明」その子「史朝義」そして「李懐仙」へと、さらなる混迷と動乱の中に神器は消

えて行くのです。

彼等は純粋の漢民族ではありません。中央アジアの異国人であり、「寶」の偉大な価値は分かる筈が

ありません。

陶磁器であり、金・銀・玉でなかったのが幸し、今日まで「寶」は自身を守ったのです。正に陶

工達の祈りと火の神が、守り通した結果です。

天寶15載・756年、楊貴妃、また762年玄宗逝く、享年78才でした。

「李享」に譲位した玄宗は、楊貴妃の墓の改装も廷臣に拒まれる程で、老耄の彼には「寶」の行方

は、泡沫の夢であります。唐朝の“完壁’’の守護神と信じていた玄宗の胸中は察して余りある。

太極は太極であって完壁では無い。

歴史もまた大自然と同じく刻々移ろい、無常である。

その後の道教史を見ると762年以降、約半世紀ちかく道教史に特別に注目すべき記述が見あたりま

せん。その後の皇帝の道教への意識、複雑な感情が観えるようです。

玄宗の過度な夢想への反省、現実に目を向ける、政治の転換が読み取れます。安禄山は息子の手

で果て、さらに息子は史思明の手で殺され、その史思明もまた殺される。天下の覇者が手にする

「寶」は、かくて動乱の藻屑と消えるのです。

巻頭に載る、印面の写真を観て戴きたい。印面の一角が欠損している。私はこの傷跡に争奪の激し

さを観るのである。

いずれにしても、この漢文化の黄金期、天下の覇者が持つとされた神器「寶」なくして大唐は語れないの

です。

大唐の大乱は、天下象徴の神器「寶」の争奪戦であり、道教・陶磁器・印章・唐詩・政治・経済・科学・

獅子信仰、あらゆる大唐文化が、この「寶」を指し示すのです。