6章「君」・印文「太上」と国教戦略

 

唐の高祖が武徳8年(625)、それまでの仏教・道教・儒教という優先順位を改め「李」姓である唐

朝の先祖と仰ぐ「老子」に因んで道教を第一位、上座と明確化しました。そして君臣・長幼の順、礼

法を説く儒教を第二位、仏教を第三位としています。

その唐朝の神聖な順位を、則天武后が政権を握り国を「周」と号した時、その新政権の政治戦略の

為、順位を逆転させ仏教を第一位としました。

道教と仏教この二大勢力の暗闘は、以後の中国史において長く隠れた戦いとして伝わるが、茅山派12

代宗師・司馬承禎が則天武后・宗・玄宗三代の皇帝に拝謁し、最大級の賞賛と深い信任を得た原因は

何であったか「寶」の印文にその光と影を観る。

武后が権力を事実上掌握するまで、唐朝は唐祖と戴く老子の道教が皇宗であり、これを信奉していま

した。

武后の母は熱心な仏教徒であり、多少の影響もあったであろうが、希代の政治家である武后は、政治

的・個人的野望達成の手段として仏教を用いる。

ともあれ武后は道教から鞍替えし、仏教を第一としました。則天文字を自らも直接間接に深く関与

した武后の心の深淵を観ると、果たして武后自身、絶対的に仏教を信じていたかと言えば大きな疑問

符がつく。と言うよりも、仏教伝播以来、根付いたとは言え、中華の中国、天子に同格と位置付

ける天后が最終的に選択する「道」は只一つ、「寶」の示す「一」「五」「九」の天子皇帝の数位、「老」

六画・陰極の「六」は天后昇仙の「道」天道に従うことです。

最晩年、彼女は道教への回帰を果たしています。「天子」「天后」として天道に帰順したのであり、

いかな武后と言えども、太古以来の天子の道、天道を曲げることは出来ない事を意識の底で覚醒して

いたのです。

…‥それはさておき『大漢和』で印文「太上」の語訳を見ると「太上皇」の同義語に「太上天皇」

があります。

太上は始皇の上の位で、秦の始皇帝以来、漢の高祖など父の尊號・追號に稱され、つまり代を重

ね祖先となるべく父を太上の天に奉じたのです。睿宗は早々と位を太子に譲り、自ら太上皇と稱し退き

ました。

そして、のち玄宗の登場です。「寶」の「太上」と重なる睿宗の「太上皇」への退位と太子への禅譲、

そして唐朝の道教回帰、玄宗の登場と、その激動の政変の影の旗頭は紛れもなく承禎であり、謎に包

まれたこの承禎の暗躍・暗闘が、この印文“太上”から観えるのです。

「寶」の中央・中天・「太上」の文字の神意、印文の太極、動かす事の出来ぬ天地“絶対九文字の

画数”に合わせた、睿宗の「太上皇」への退位から、承禎のしたたかな政治的戦略と彼の驚異の“易

力”が観えるのです。

もちろん承禎は、“太上皇”を受託するということは「太上の界」、即ち昇仙への道が開かれた事を

意味すると、睿宗に告げたでしょう。

親思いの玄宗に対し、「寶」中央「老」の文字の表裏に彼のイニシャル「玄」を秘め、その垂直頭上

には「太上皇」となる睿宗を戴くことにした。この太上の進言と「開元」の“元”を開く道、皇帝の

王道の何んたるかなど、玄宗の身の処し方に、多大な助言を与えた承禎の恐るべき深遠、その人物像

が、この「太上」の文字から浮かび上がってくるのです。

玄宗の祖先や肉親思いの性格と、政治的に不向きであった睿宗の性格を計算にいれた戦略、承禎の

読心術と占易その深淵が、この“太上”“老”“君”の文字の意味と言葉の順位から観えるのです。

承禎は、これらの文字の配当に、道教回帰への政治戦略を組み込んだのでした。

まさに、この印文中央五文字に符合した政治的ストーリを、承禎はすでに念頭において睿宗・玄

宗に拝謁し、そのしかるべく「道」を説いたのです。

底知れぬ承禎の「玄」宇宙です。

この大唐の歴史に果たした偉大な司馬承禎は、いまだ歴史において無為として、一切語ってはいない

のです。

 

          平成9年4月29日