2章3・唐白磁の謎に観る


 次にこの項の以下に記すことは、余りに唐白磁で制作された神噐「寶」にとって、重要

な記述ですので、原文を大切にし、要点だけを抜枠し先に掲載致します。

 


『世界陶磁器全集隋唐偏』(文献4)の「盛唐の白磁」(
209頁)「中晩唐の白磁」(212頁)

「唐白磁の窯」(212頁)に、唐代
則天武后の時代から、玄宗皇帝の開元年間を経て、安緑山

の乱に至る70年間に、陶磁史上その名を残す『唐三彩』が制作された事が、ほぼ確実視されて

いる。しかもこの時代、中晩唐にかけ(
A)“白磁”が盛んになり、陶磁史上ただならぬ時代で

あった事を想起
させると記述される。

 さらに(B)この様な大きな変化がどの様にして起こったのか、唐代磁器の大きな課題、す

なわち謎とされている。

 さらに続く(C)「唐白磁の窯」の項に、多くの研究者の努力にもかかわらず今だ窯が発

見されていないとあります。(D)宋代に盛んに白磁を焼いているけれども、それらのどれ

が唐代に
活動したという報告は無いとあります。また現在(E)制作地を論ずることは出来な

いとあ
り、さらに(F)“唐の白磁は純白の素地に艶やかな白釉がかかり、そのふるい記憶には楽

器にも使用された、堅く焼き締まった白磁”とみえ、そして(G)宋代白磁と異ならない

磁器”であるという。


 これは驚くべき研究の成果であり、先学の努力に深く敬意を表せずにおれません。

 前文中(A)まさに天印「寶」制作の勅令が玄宗皇帝より全土に発せられた為、白磁(磁器)

の開発研究が不可欠となって、一気に盛んになり、それまで
の陶器から磁器に本格移行

する、ただならぬ時代を生み出したのです。

 (B)この唐代の大きな変化は、まさに玄宗皇帝、天子の勅令の為なのであります。

 (C(D)(E)に関しては、本書全編を通し重ねて述べますが、それは神噐であり秘密保持

の勅
令が下されたからです。それは第1章で述べたとおり印文そのものが道教の天隠であるか

らです。勅令の窯場は即ち官窯であり、しかも神噐生誕の地は聖地です。陶磁器の制作に

不可欠な諸条件は全くの度外視であり、天の理に叶う地でなければなりません。まさにそ

の聖地こそが窯場ですぅ。完成後、窯場は廃され、道士によって清められ、そしてそこに

壮大な「宮」又「観」が建てられた筈ですから、(C(D)宋代に発見される地域的窯場と、

時々発掘される唐代白磁との線が繋がらず研究者が当惑しているのは十二分に想像出来ま

す。

 (F(G)は巻頭に掲載の天印「寶」を、目の当たりにして描写したと思える記述です。

 白獅子は、純白の下地に透明な白釉がかかり、固く焼き締まった磁噐であります。まさ

に膨大な人力を費やした神噐「寶」焼成が、唐代の陶磁史に“只ならぬ時代を作り” 神噐

製造の試行錯誤の過程で、ついに今日に伝わる完全な「磁器」の母体を創出し、中国五千

年の陶磁史上の分岐点、技術革命をもたらしたのです。これは、世界に冠たるメードイン・

チャイナの原点であり玄宗皇帝の神噐「寶」の勅令により以後の隆盛をもたらしたのです。

 本書巻末年表に712年玄宗即位とありますが、その頃唐三彩の陶工及び当時の名工達

の分布状況は明器(死者の副葬品)の届け制で概に調査済みです。716年玄宗の勅令は全土

に発せられ、唐代は全て「寶」焼成の「官窯」の地に招集されたと考えられます。

 この史上空前絶後の「寶」制作にあたって、陶工集団のみならず鉱山士、また金丹(不

老薬)製造など当時の科学者、他あらゆる分野の者達が組織的に動員された筈です。

 この「寶」誕生の過程で本格的に、磁器が生み出される以前、太古より伝えられた陶器

は、造型や釉の改良開発などが陶工達の主な研究テーマであったでしょう。それがこの

制作不可能な「寶」焼成を期す為、それまでの伝承や一切の固定観念を捨て去り、新素材

開発に筆舌に尽くせぬ挑戦を行った筈です。この歴史的分岐点の最後を飾ったのが「唐

三彩」であり陶器の時代の終りを告げるに相応しい、この唐三彩は、唐代文化の

色彩を今に伝えます。その三彩の色の中に、華やかかりし女帝「則天武后」時代か

ら、それに続く開元〜天寶時代という、文化の黄金期に移行する変貌の過程を、唐三彩の

陶芸技術の成熟度合いの進化にハッキリとうかがえるのです。

 唐三彩の秀逸さは、その名の通り、三彩の釉に目が奪われがちであるが、盛唐の作品で

ある馬・駱駝・獅子などの造形は、その肢体の中に骨格から各蔵器まで造作したかと思え

る程、名工の気迫が伝わり、とりわけ逸品と賞賛される品の造形は中国陶磁史に特筆され

るべきものです。中国陶磁史の中で、太古以来焼き続けられてきた陶器の最後を飾るに相

応しい、この唐三彩の陶工技術の本流が神噐「寶」制作に間違いなく携わったと推定する

のです。

 それでは何故これ程大規模に組織され、恐らく門前をなす程の窯場が今日発見されない

のか?後世の史書に記述が無いのか?唐白磁が後の宋代の白磁と何故結び付かないの

か?・・・それらの可能性を次に述べます。

1・天寶の動乱「安史の乱」により、窯場及び神噐発祥の地が廃墟と化した事。

2・神噐制作の計画立案の段階から勅令により、一切全て隠秘の勅令が下され、「寶」完成

後、窯場は取り払われ、一切の史実を抹殺した事。

 以上いずれにしても、従来の窯場設定の基礎条件にあてはまらない場所と推定され、従

来の常識的発見方法にこだわればこだわる程、窯場は遠くなる「鬼門遁甲」の術で隠され

た聖地と想像されます。

 恐らく、聖地に相応しき景勝の地で、しかも易と陰陽五行思想、風水にかない、そして

天子の思想に合った地でなければなりません。

 鞏県窯・定窯・那州窯・又長安・洛陽の両京の北斗の方角か?それとも逆転の南斗か、「寶」

発見への今後の調査研究が待たれます。

 この盛唐から中晩唐にかけて、その名を残す唐白磁も、先の傍証と符合するのです。