第1章12・道教思想と印の一考察

中国文明の中で印章が果たす歴史的意義や重要性は、過去多くの著書に著されてきまし

た。それで本書ではあらためて触れませんが、この驚異的印文を発明した天才が、何故こ

の完璧の文言を印と言う“道具”に印籠したのでしょうか?

もちろん先にも触れましたが、道具とは道教真理“道”を“具現化”したもの、それが「道

具」であります。しかも、本書で次々に現される“神知”を印籠し隠秘するに格好の道具

であることに違いはないが、そこにはもっと深い理由道教の「道」の真理が、そこに厳然と示

されるからと考えます。

即ち本書、冒頭に揚げた完璧の定義(1)(2)(3)の三原則に横たわる道教の“神髄”

を、「印」と言う「道具」が有する“本質”によって満たされるからでしょう。まさに、老

子の説く「道」の本質的命題を、太古に「印」と言う道具が“発見”された“瞬間”から、

厳然と印が有している道理を発見したからであります。

老子の思想に貫かれる中心的命題、それは“無為”“自然の道”であろう。印が印籠する

その必然
の命題と老子の哲理について、ほとんど無反省の思考の中で、二つの関係を考える

と次のようになります。

「無為」とは、「無が為す」であり、“無”の“はたらき”のことです。自然は四季うつ

ろい、刻々彩りながら、その姿を化えます。即ち、無は無にして無に有らず、虚無の無で

は無いと言うことでしょう。印そのものの実体は“有”であるが、「印字」は文字の実体を生

み出す為の“逆の象形”です。文字本来の象形の意味も、「言葉」の意味も実体も無い、“虚”

そのものです。

印に刻まれた象形を、「噐」内部から万一見る事が出来たと仮定した場合、それは“無”

であるが、我々の側から見える象形は“虚”です。虚と無“表裏一体”の「虚無」であり

ます。

そして、その虚の象形が印泥の“交合”により投写された“瞬間”「無」の実相「有」を

現すのです。

「無」は無限の無を秘める無であり、「虚」の無ではありません。無限の「有」を生み出

す為の偉大な無なのです。

この印と言う道具が、発明された遥か無限の彼方より、必然の「道」の中に漢大宇宙は

“無為自然”に存在しています。

この「寶」の印文を発明した天才は、「印」と言う道具の“宿命”の中に無為自然の道理

を悟り、神噐「寶」と成したのであろう。

まさにこの中国5000年の「寶」、その“道の具”に厳然と存在する“表裏の関門”こそ

漢大宇宙“太極”を開く“登龍の門”です。

太極「寶」の神知は、太古より神の化身と信じられた漢字、その表裏の内なる玄に天隠

されてあるのです。

「寶」創造を上奏した天才は、時の皇帝に「道」とは“具体的”にどの様なものかと尋

ねられた時、この「寶」の道具としての宿命を引用して「道」を説いたと考えるのです。

ここに、「寶」が玉や鏡でなく、印たらんとする必然を観い出すのであります。